2006・12
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2006/12/31 (Sun) マザーの祈り

book2.jpg

『自分より他人を』 
マザー・テレサの祈り~

 主よ、私が空腹を覚えるとき
 パンを分ける相手に出会わせてください
 のどが渇くとき
 飲み物を分ける相手に出会えますように
 寒さを感じるとき
 暖めてあげる相手に出会わせてください

 不愉快になるとき
 喜ばせる相手に出会えますように
 私の十字架が重く感じられるとき
 だれかの重荷を背負ってあげられますように
 乏しくなるとき
 乏しい人に出会わせてください

 ひまがなくなるとき
 時間を割いてあげる相手に出会えますように
 私が屈辱を味わうとき
 だれかを褒めてあげられますように
 気が滅入るとき
 だれかを力づけてあげられますように

 理解してもらいたいとき
 理解してあげる相手に出会えますように
 かまってもらいたいとき
 かまってあげる相手に出会わせてください
 私が自分のことしか頭にないとき
 私の関心が他人にもむきますように

 空腹と貧困の中に生き
 そして死んでいく世の兄弟姉妹に
 奉仕するに値する者となれますように
 主よ、私をお助けください

 主よ、私たちの手をとおして
 日ごとのパンを
 今日彼らに
 平和と喜びをお与えください



2006年がもうすぐ終わろうとしています。

ありがとう。
ありがとう。
すべてに、心からの感謝をこめて。 

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2006/12/30 (Sat) 部屋と心

今、かなりかなりショックなことが・・・。
二時間近くかけて書いた記事が、消えてしまった。
書き直す気力はさすがに出ないなぁ・・・。
これを今年のドジ納めと出来ますように。

書きたかったのはただ一言。
「部屋の状態と、心の状態は直結している」ということ。
今日、自分の部屋の大掃除をして、きれいな部屋で気分スッキリ。

・・・・だからって、記事までスッキリ消えてしまうなんて・・・・。
ドジドジ、本当にドジ。
。・゚・(つД`)・゚・。

せめても、この経験を糧にしよう・・・。

本日のお言葉
・「失敗をするために、私たちは生まれてきました。失敗を乗り越えるために、今、ここにいるのです。」
・「人生で起こるすべてのことは、自分に責任があります。誰のせいにもできません。」
・「どんな経験も、ひとつとしていらないものはありません。すべてたましいの成長のために必要な経験なのです。」
(EH氏の本より。)

・・・まったく、おっしゃるとおりです。
シュン・・・。


2006/12/29 (Fri) 「ふゆのさくら」

私の好きな「ふゆのさくら」という詩。

「ふゆのさくら」 新川和江

おとことおんなが
われなべにとじぶたしきにむすばれて
つぎのひからはやぬかみそくさく
なっていくのはいやなのです
あなたがしゅろうのかねであるなら
わたくしはそのひびきでありたい
あなたがうたのひとふしであるなら
わたくしはそのついくでありたい
あなたがいっこのれもんであるなら
わたくしはかがみのなかのれもん
そのようにあなたとしずかにむかいあいたい
たましいのせかいでは
わたくしもあなたもえいえんのわらべで
そうしたおままごともゆるされてあるでしょう
しめったふとんのにおいのする
まぶたのようにおもたくひさしのたれさがる
ひとつやねのしたにすめないからといって
なにをかなしむひつようがありましょう
ごらんなさいだいりびなのように
わたくしたちがならんですわったござのうえ
そこだけあかるくくれなずんで
たえまなくさくらのはなびらがちりかかる

~詩集「比喩ではなく」より~

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写真は、12月だというのに、まだけなげに咲いている「十月桜」。
冷たい空気の中で、花数も少なくひっそりと静かに咲くその様子が、
春に咲く桜よりも何だか”いたいけ”だと感じます。

桜、といえば春の代名詞のような花だと感じていましたが。
ほんの少し、咲く時期がずれてしまった「ふゆのさくら」。
美しい詩なのに、なんだかせつない。
この詩に描かれているのは、愛し合う二人の、
響きあう心。
向かいあう、対(つい)のたましい。
・・・それでも、何かが少しずつ、ままならず・・・。

「なにをかなしむひつようがありましょう」

そう自分に言い聞かせなくてはならないほどに、
悲しみが静かに作者の胸にあふれていたのでしょう。

それでも、愛する人と共にすごせるひとときが嬉しい。
黙っていても、ただ一緒にいれば、心が通じ合う。
優しいひかりの中に包まれている二人。
静かに散る桜の花びらの美しいイメージと重なって、
はかなく、せつなく・・・。

「一瞬」の中に、「永遠」が宿った瞬間が切り取られている。
愛の中では、時間は物理的な長さを超越する。

「なにをかなしむひつようがありましょう」

真実に愛し合えた「一瞬」は、「永遠」。
永遠に、散りやまない桜。

「たえまなくさくらのはなびらがちりかかる」


2006/12/28 (Thu) 年賀状

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う~ん、カワイイ!!うちのナラちゃんです♪


やっとやっと書きました。
年賀状。
何事も遅い私は、毎年この時期に「もっと早く書けば良かった~。」と後悔。
はてさて元旦に届くでしょうか・・・。

ついこの間、昨年の年賀状を書いたような気がするのに、一年って本当に早い。
年賀状は、儀礼的なものはつまらないと思うので、何年も会っていない学生時代の友人や恩師のことを思い、やはり私の近況報告も兼ねて「元気に頑張っていますよ♪」ということが伝わるものにしたいと思って作りました。

私の撮った花の写真。(今年は桜にしてみました。)
愛猫・愛犬の写真。(子猫が一匹増えたのがうれしい。)
そして、小さく自分の写真。(ナルシストじゃないですよ。)
そこに、今年の私の日々を簡単に・・・。(踊りのこと。仕事のこと。日々のこと。)
ここ何年かはこんなような雰囲気のものを作っています。
なかなかほんわかムードにかわいく仕上がりました。

一言ずつ、手書きでメッセージを添えて・・・。
大仕事をひとつ終えて「ホッ・・・」。

今日は今年最後のレッスン。楽しく踊ってこよう。
明日はスタジオの大掃除!
自宅の大掃除はラスト二日に一気に頑張らないと・・・。

気持ちよく新年を迎えられるように、あと少し頑張ろうっと♪
やっぱり年末は何かとバタバタしますね。
ゆっくり落ち着いてこの一年をふりかえることができるのはいつでしょう。
しっかり見つめないといけないな・・・。

ま・・・たまにはこんなたわいのない日記も良いかな。ふふ。


2006/12/27 (Wed) flor・花

クリスマスの夜、レストランを出たときに降り出した雨は、次の日も降り続いた。
26日夜中、窓を打つ激しい雨の音、そして、カーテン越しに青白く光る稲妻、そのあとに長く重く空を揺るがして続く雷鳴。
雷のゴゴゴゴゴ・・・という振動に、家がふるえるほどだった。

●井上恵美子ダンスカンパニー公演「flor・花」鑑賞記
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2006年12月26日(火)夜
新宿ゼロホール(曾根崎の2年目の公演を行った思い出の場所。)にて井上恵美子ダンスカンパニーの「flor・花」という公演を観た。
昨年度の文化庁芸術最優秀賞を受賞した実力のあるグループで、主催の井上恵美子さんは私と同じスタジオのジェントルマン・「コンコン」の奥様だ。ダンサーの中には、コンコンのお嬢さんで女優さんのうららさんもいらっしゃる。
(うららさんは、寺島しのぶさんが樋口一葉を演じた舞台「書く女」にも出演されていた。そのときの感想はこちら。
http://lunasolmilcoco.blog68.fc2.com/blog-entry-24.html

●こんな舞台でした・・・。

初め。重いグレーの服を着た女性(井上恵美子さん)がゆっくり揺れながら、長いシフォンの布地をたぐり寄せていく。
へその緒?時間?心?様々にイメージが広がる。

そして、舞台中央奥に丸く集まって座っている、眠るような女の子のかたまり。黄緑色のシャツに、白く薄い布が何層にも重なったクラシックのバレリーナのようなふんわりスカート。
まるで・・・春の木の芽吹きのような。
萌えいづる生命の若々しい柔らかさ、かわいらしさ。

争いや激しさを感じさせる中盤のシーン。
上半身の衣装は光沢のある明るい茶色に変わり、動きも激しく速くなっていく。
踊り手の体の柔らかさや、ジャンプ力、跳んだときにみんな空中で足が180度に開くのだ。
それだけ踊れる人が、こんなにたくさん集っているというのはすばらしいことだなぁと思う。

作品のクライマックス、井上恵美子さんのソロ。
スペイン人の歌い手の、切ない歌声にのせて踊る。
黒い服と黒い布。シンプルさの中に、際だつ表現の深さと強さがあった。
本当に心にしみこむように思いが届いてきて、グッと引き込まれた。
運命・・・生きることの苦しみ、悲しみ。絶望してしまいたくなるような現実。孤独。
泣きたいような、叫びたいような、怒りたいような・・・。
後半は持っていた布を顔にかぶせたまま踊られた。顔の表情が見えないそのときでさえ、・・・むしろそのときこそが、最も「想い」が客席に届いた瞬間だったように感じる。

そして感動のラストシーン。
ヴィヴァルディの「四季」の「冬」(もともと私はこの曲が大好きなのです。)の美しく流れる中、ひたすら雪が・・・大量の雪が舞台に降り積もる。
そこに照明が当たって、雪がキラキラ、キラキラとする。
青い服を着た女の子たちが客席に一番近い舞台前面に一列になって出てくる。
そして静かに後ろを向き、後ろ向きのまま雪の中を舞台奥へと進んでいく。
みんな、自分の前で静かに手を組んで、一人ずつのままで。
でも、その中の一人が(うららさん)、そっと隣の女の子の背中へと手を伸ばす。
ふっとした小さな仕草なのだけれど、ここが何とも胸にしみこむような感動を与える。
そのまま、うららさんのソロになる。
丸いおでこ、丸い目、つまんだような鼻。ほっそりして華奢なのに、しなやかで強い。
そして、何とも可憐で愛らしく、小さな花のように清楚で美しい。
表情も、腕や体の動きの一つ一つも、本当に輝いている。そして、伝わってくる。

・・・激しく降る雪はいつの間にか、ピンクの花びらへと変わる

花びらの絶え間なく降る中で、女の子たちが笑いながらクリーム色のスカーフを振り、舞い踊る。
生きていることが、楽しくて仕方ないのだ、踊ることは、喜びなのだ、ここでこうしてみんなと笑いながらはね回っていることが嬉しくて嬉しくて仕方ないのだ・・・と。
涙ぐみたいような歓喜の中で花びらは絶え間なく降りしきる。

●終わりに

今こうして思い出しても胸にふわぁっと感動がよみがえってくる。
正直言って、これほど感動することは予想していなかった。
(私は、・・・モダンバレエは今まで苦手意識が強かったのです。)
謙虚なコンコンは「まぁ、たいしたこと無いけど、良かったら見に来てよ!」なんて、謙遜なさって誘ってくださった。でも、とんでもない。すばらしい作品だった。
本当に・・・すばらしい舞台で、たった1時間ほどの長さなのだけれど、最後は感動のあまり胸の中にわき上がってくる涙をこらえながら観ていた。

ダンサーの身体能力の高さ。表現力の豊かさ。あれほど踊れたらどんなに気持ちがいいだろう。みんな若々しく伸びやかで、命がキラキラと躍動していた。そして衣装も、踊りを活かす素敵なものだった。
(ただ、メイクはもっとナチュラルな方が作品が生きたような気がしたけれど・・・なにしろかなり至近距離で観ることができるので。・・・って「曽根崎」を思えば人のことはいえない。汗)
花びらの中に包まれたような・・・子宮の中にいるような・・・柔らかい曲線の重層的に重なり合った奥行きのある淡いピンクの舞台装置。踊りを活かすドラマチックで凝った照明もすばらしかった。
音楽も素敵だった。

特に、たくさんのピンクの花びらの舞い散る中で、女の子たちが楽しそうに舞い踊るラストシーンはいつか確かに見たことのある夢のワンシーンのようで、私の心に眠っていたものを思い出させた。
舞台を見終えていろいろなことが胸によみがえってきた。
踊るのがただ単純に楽しかっただけだったときのこと。
子供の頃の楽しかった日々の思い出。
見るものの胸に届く、いい舞台を見せていただいたと心から感謝している。

やはり、特に心に残っているのは、井上恵美子さんのソロと、うららさんの存在だ。
うららさんは表現力も踊りもピカイチで、愛らしさも際だっていて、本当にキラキラとしていた。
そして、ダンサー全体のレベルの高さに本当に驚いた。日々たゆまぬ努力が合ってこそ、あのようにのびやかに自由に踊れるのだと、その背後にとてつもない努力の積み重ねの日々があることを思った。

私たちは、もっともっと精進しなくてはならないなぁと反省した。
本当に、だめ。体の硬さ、動きの硬さ。
心を表現するためには、その媒介としての体が徹底的にできていなくてはならないのだと、しみじみつくづく考えた。
もっとよく踊るためには、あれもしなくちゃ、これもしなくちゃ・・・。
・・・というように、踊ることに対して前向きになっている自分に気づいた。

いい時間をありがとう!また次も、ぜひ拝見したいと思った。


2006/12/26 (Tue) merveille

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「merveille」 
メルヴェイユ

フランス語で
「奇跡・驚異・何か良いこと・素敵なこと」
という名の小さなレストラン
http://www.augoutdujour-group.com/me/index.html

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2006/12/25 Christmas
夜遅い時間から雨が降った日


2006/12/25 (Mon) 切に生きる~瀬戸内寂聴かく語りき~

先日、NHK「クローズアップ現代」という番組で、最近私が読んでいた(そしてここにも2度ほど取り上げた)作家の瀬戸内寂聴さんの特集を見た。
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photo2327-1.jpg
11月15日(水)放送
瀬戸内寂聴 84歳 創作の日々

今年度の文化勲章を小説家の瀬戸内寂聴さん(84)が受章した。作家生活50年、女性の激しい生き方を描き続けてきた。今、その生き方に惹かれ、瀬戸内さんが開いた庵・寂庵には法話を聞くために多くの人が集う。家庭や恋愛問題、いじめやリストラなど様々な人生相談の場ともなっている。「人間は死ぬまで自分に見切りをつけてはならない」が信条の瀬戸内さんは、今も新たな試みに挑戦し続けている。歌舞伎や狂言、さらにオペラの台本まで、これまで手がけたことのない、新しいジャンルに積極的に取り組んでいる。80歳を超えてもなお、あくなき挑戦を続ける瀬戸内寂聴さんのエネルギーの源になっているものは何なのか、本人の言葉の中から探っていく。
(以上、番組HPhttp://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku2006/0611-3.htmlより引用)
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最近私にとって心惹かれる作家である寂聴さん。
84歳という年齢は、これほど生命力のあふれる若々しいままでいられるものなのかと、驚いた。
本当にお元気で闊達で、語っていらしたお言葉には、その人生の重みが感じられた。人を過剰なまでに愛し、その愛する苦しみの中でのたうち回りながら、自分を人を傷つけて生きてきた罪多き人生、そしてなお、自分自身の心に常に誠実でありつづけた人生・・・。
さまざまに胸に響く言葉が多かったので、メモをしながら見ていた。
それを、忘れないうちに記しておきたい。

●「狎(な)れる」
「狎れる」、という言葉が何より嫌い。
生きていると、さまざまなことについ「狎れ」てしまう。
その瞬間から堕落が始まる。
「狎れ」たくない。

●「渇愛」
仏教的に言えば男女の愛は「渇愛」。
求めても求めても、満足せずに、もっともっと欲しいと願うもの。
愛が成就した瞬間から苦しみが始まる。
それでも愛した方がいい。
人は愛するために生まれたのだから。
生きるとは愛すること。
文学とはそれを描くもの。
自身の文学のテーマとは、
「人が人を想う過剰なエネルギー」
「生きるとは愛すること」。
決して満たされない愛の苦しみを、文学へと昇華していく。
文学を通して、愛の苦悩と、人間の本質に迫ろうとする挑戦を続ける。
はてしない人間の心の深みを追い求め続ける。

●「苦しみ」
もともと人間は、一人で生まれ一人で死んでいく。
だから、孤独であることは当たり前。
寂しいのは当たり前。
・・・と、覚悟を決める。
解決してくれるのはただ、「愛」だけである。
人の苦しみを解決することはできないけれど、ただ、その苦しみにだまって「つきあう」。
孤独に甘えず、孤独を飼い慣らし、他者の孤独に思いを広げるゆとりが必要。
生きている上で、誰か一人でも幸福にできたら、それこそが幸せ。

●「切(せつ)に生きる」
全身全霊で一生懸命に生きる。
それしか道はない。
生きているからには、情熱を燃え立たしていなくてはつまらない。
生ぬるい生き方はしたくない。
人を傷つけず・・・でも、自分自身は傷ついてもかまわない。
「私は修羅を乗り切るために、あるだけの情熱をかき立てて、自分が空っぽになるほど切に生ききらなければならなかったのです。私は常に情熱的に生きてきて、生きることに退屈することがありませんでした。」

●「才能」
「自分に見切りをつけない」
自分の可能性を諦めた瞬間から老いが始まる。
「自分の健康、精神の若さ、可能性に、みずから見切りをつけた時から、老いが始まる。思い残すことなく燃え尽き、自分の可能性に挑戦し続けたあげくに訪れる死は、『死もまた楽し』と死後の世界を夢見られるのではないか。」
人間は、誰しもまだまだ才能を使い切っていない。
才能とは、氷山の一角のようなもの。
もっともっと掘り起こすことがたいせつ。
才能無くこの世に送り出された人は、一人もいないのだから・・・。
自分の好きなものに、精一杯挑戦し続ける。
そのなかで、思わぬ才能を開花できるかもしれない。

「いのちには終わりがある。能には果てあるべからず。」
世阿弥の書いたこの一文を読んで、「世阿弥を書こう」、と思った。
「能には果てあるべからず」の「能」は、「芸術」、「文学」、などという言葉と置き換えることができる。
自分の可能性がどれほどあるのか、人間には自分では分からない。
自分はまだ書き尽くしていない。
枯れない泉のように・・・。


●私の感想
まったくもって、驚くほどに、生きるということに対する本質的な問題を、あまりに真っ正面からよくぞ語ってくれたものだと、心底感服する。
胸にとても響いた・・・。
・「狎(な)れない」
・「切(せつ)に生きる」
・「生きるとは愛すること」
・「自分の才能に見切りをつけない」
・「生きること、愛することの苦しみを、芸術に昇華する」
どれも今の私にとって、とても必要な言葉で、しかも、ずっと私がそうありたいと思ってきたことだった。
これは、もう少し掘り下げていかなくてはならない作家に出逢ってしまった、という感じ。
彼女の本をさらに読んでいきたいと思う。
そして私も、枯れない泉のように生きたい・・・。


2006/12/24 (Sun) Merry Christmas!
Merry  X'mas! 2006
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マザー・テレサのとなえたアッシジの「聖フランシスコの祈り」
神よ わたしを あなたの平和のために用いてください。
憎しみのあるところに 愛を
争いのあるところに 許しを
分裂のあるところに 一致を
疑いのあるところに 真実を
偽りのあるところに 真理を
絶望のあるところに 希望を
闇に 光を
悲しみのあるところに 喜びを
もたらすことができる人にしてください。
慰められることよりも 慰めることを
理解されることよりも 理解することを
愛されるよりも 愛することを
求めることができますように。
わたしたちは 与えることによって与えられ
ゆるすことによってゆるされ
人のために命を投げ出すことによって 
永遠に生きることができるのですから。


この美しい言葉を、真っ直ぐに顔を上げて明るく受けとめて実行できる私であったらどんなに良いだろう。そして、いったいいつから、そうではなくなってしまったのだろう。
まぶしすぎて、見つめられない。
どうしてこんなに遠くなってしまったんだろう。
個人的な喜びや悩みに終始して、心がいつも涙ぐんでいるような、こんな私を、もし神さまがいたらどう思うのだろう。
怒るだろうか。・・・きっと怒らないだろう、・・・悲しむかもしれない。
許してくれるだろうか・・・・・・きっと許してくれるだろう。
でも、自分自身が知っている。
自分の愚かさや、弱さ。
生きていく上で、もっとも自分の道の妨げになるものは、何より自分自身の心の弱さだと、感じざるを得ない。

ここで私は、何らかの前向きな結論を引き出し、次に進むべき道を自分自身で自分に提示し、乗り越えてさらに一歩を踏み出していく強さを、持つこともできるだろう。
これまでならあっさりと、そうしていただろう。
でも、今、自分自身が選ぼうと思うのは、もう少し苦しんだり悩んだりしているこの状態の中に踏みとどまること。
苦しむこと、悩むことは、きっと悪いことではなく必要なこと。
前向き、楽天的、・・・必死に取り繕ってそんな自分で居続けることよりもむしろ必要なこと。

混沌とした自分の心。
混沌のままで、そのままで、今の、水面のように炎のように絶え間なく揺らめく自分の心を操作せずにいること。
どうしたらいいのか分からない、・・・そんな本当に困った状態のどうしようもない自分で、もう少し居続けようと思う。
見つめつづけた果てに、もやの中から抜け出すときがきっと来るから・・・。
抜け出そうとしないで、踏みとどまることが大切。

人に会う時は笑顔で。
顔には出さないこと。
いい大人なのだから、しっかりしなくては。
こうして私が愚かに自分の心の中にうずくまっている時にも、そんなことはお構いなしに地球は回り、太陽は巡り、時は進み、世界は変化しつづけているのだから。
そして私の人生も、とどまることなく進んでいく。
「進んでいったあとにできていった道が結果的に運命の道である」と、ある人が言った。
「僕の前に道はない 僕の後に道はできる」、と詠んだ高村光太郎を思い出した。

今日は、笑顔で、・・・しかも最高の笑顔で過ごす。
おしゃれして、きれいにメイクをして出かけることにしよう。

クリスマスの夜にふさわしく、華やかな街並みやイルミネーションや夜空に瞬く星のように、きらきらとした、明るい笑顔で。
私には、幸福に対して、責任がある。
心を誠心誠意尽くして人を幸せにしたいと、願わずにはいられない。

「心を尽くし、たましいを尽くし、思いを尽くして愛しなさい。」

2006/12/23 (Sat) 瀬戸内晴美『いずこより』 ふたたび

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☆瀬戸内晴美『いずこより』(新潮文庫)より 心に残った文章

「不可抗力的に襲ってくるものが恋なのであるから、理性や、打算で、ふせぎ得る恋は、本当の恋とは言えない。(略)身うちに生命の火が燃えたら、どんなささやかなごまかしも、なれあいも認めることができず、自分の心を真っ正直に押しだして、純粋に心のままに生きたいと願う女がいたら……やはり生涯に、一つや二つの恋に襲われるのは当然だろう。恋は錯覚の上に咲く花にすぎない。女は恋人の上に自分の憧れ描く理想の男の仮面をかぶせ、それを本当の恋人と思いこんで恋に身をやいていく。その仮面がはがされた時は、自分の捨てた夫と大差ない男、あるいは、かつての夫よりはるかに価値のないくだらない男の正体をそこに見出す。それでも彼女が、その誤った恋をしなかった方がましだったとは、誰にもいいきれない。女は恋をすることによって、自分を発見してゆく。愛されることによって自分を深めていく。愛することによって、知恵がつく。恋に悩んだことのある女と、そうでない女のちがいは、他人の心の不幸に対して思いやりが深いか浅いかに現れてくる。」(p298)


「私は日ごとに彼(小田仁二郎)に傾斜していく自分の気持ちを生まれてはじめての恋のような気がしていた。
 かつて木下音彦を愛したと思った時、これこそが恋というものかと自分の心に問いかけたことは忘れていた。家を崩壊し、子供を捨ててまで恋に殉じようとした自分が、どんなあっけなさで、自分の恋を投げ捨ててしまったかということも忘れていた。木下音彦への愛を自覚した時、これこそ、自分の最初で最後の恋になるだろうと思ったように、今度もまた小田仁二郎とのめぐりあいと愛こそ、私のはじめての恋であり、おそらく最後の恋になるであろうと信じ始めていた。」(p420)


「彼の顔を見るなり、私は彼と会わない日々に、私の身におこったあらゆる事件を、どんな些細なことでも告げずにはいられない。矢継ぎ早にせきこんで話しつづけ、彼がいつもの無表情の中に、目だけに情をあらわして、
『うん、うん、それでどうした』
と聞いてくれる時、私は彼と別れていた時間のすべての瞬間に、光が与えられ、私の中にその間の経験や生活のすべてがよみがえり、改めてしっかりと定着するのを感じるのだった。まるで私は、彼といない時間は仮縫いの服を着ていて、彼に逢いすべてを聞いてもらってはじめて、しっかり仕上げられた服を着心地良く身にまといつけたような安心感にひたされるのだった。」(p424)


「いつでも男とのかかわりを持つと、とことんまでのめりこみ、自分の肉も血も、そそぎこむことであきたらず、骨まで刻んで、男にそそぎこみたくなるのが私の性情であるようだ。どの男も、そんな私の熱情や献身に最初は戸惑い、やがて馴れ、ついには受けることが当然と思いこんでしまう。そんな値打ちが自分にあったような錯覚をしてしまう。その頃、私の方は、思いもかけないやり方で、背後から男の安逸さに刀をあびせ、さっさと消え去ってしまう。あっけにとられている男の方に、しばらく納得のゆかなさとみれんが残る。私の一方的な愛をそそがれた時の戸惑い以上の戸惑いが男たちを右往左往させる。私の方では、もう、そそぎ尽くした愛の残りかすしかなく、過去の愛も、記念も、色あせてしまっている。想い出は私に取ってはどんな場合も、採集箱にピンでとめられた蝶の死骸のように、美しくも、色鮮やかでも、二度ととり上げる気にはならないものだった。」(p487)

「いつでも自分本位で、自分の感性しか信じようとしない私は、自分の自我が受け入れられない不如意な事件や状態にたちいると、むやみに焦れていらだった。」(p500)

「私は枝を離れた一枚の薄い木の葉で、それが流れの上に落ち、水に揉まれ運ばれ、流されつづけながら、渦にまきこまれて水底にひきこまれたり、また渦の力で思いもかけない水面に送り出されたり、ある時は岸辺の水草の根によりかかり、ほんの束の間の安らかな夢を見たかと思えば、また雨水に水嵩をました濁流にさらわれ、揉まれつづけて流されてゆく。そして、気がついたら、いつか広い河口にさしかかり、行く手には水平線もはるかな果てしもなく広がる滔々(とうとう)の大海原が待っている。やがて私はその海に流れ込み、より高い波やより荒い波に揉み抜かれるのであろう。
 私は長い旅路をふりかえるように、過ぎてきた歳月を一挙に手の中にたぐりよせようとする。今となってはどんな人との出逢いも、関わりも、何ひとつ無駄であったと思うものはなくなっていた。無縁の人との縁は努力しないでも離れてゆき、有縁の人とのつながりは予期しないうちに突如として強く結びあわされている。」(p508) 


2006/12/22 (Fri) 武士の一分

★ 映画 「武士の一分 (2006日本)★★★★☆
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譲らない心。譲れない愛。
人には命をかけても守らねばならない一分がある

●作品紹介
藤沢周平原作・山田洋二監督の時代劇三部作の最後を飾る作品。
三村新之丞(木村拓哉)は、最愛の妻・加世(檀れい)、父の代から仕える中間の徳平(笹野高史)と、つましく暮らす海坂(うなさか)藩の下級武士。「早めに隠居して、子供がたに剣を教えたい」と夢を語る、笑いの絶えない平和な日々は、藩主の毒見役をつとめて失明した日から暗転する。昨日まで気が進まないとこぼしていた役目すらもはたすことがかなわない。絶望し、自害しようとする新之丞を加世は必死に思い留まらせるが、愛する夫のため、口添えを得ようとして罠にはまり、番頭・島田藤弥(坂東三津五郎)に身を捧げてしまう。その行為を、夫婦の契りを絶つ裏切りと感じた新之丞は、加世に離縁を言い渡し、復讐を誓う。しかし仇敵・島田は藩内きっての剣の使い手。新之丞の無謀な果し合いに勝機はあるのか、失われた夫婦の絆と情愛は再び取り戻せるのか…!?
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●「木村拓哉」、という男
木村拓哉は、「アニムス」だ、・・・と思う。
「アニムス」とは、ユング心理学でいう、女性の夢に現れる元型としての男性像。
真実の彼がどんな方なのかもちろん私には知るよしもないけれど、多くの女性の心のなかにある理想の男性像のイメージを具現化して創られた架空の男性。
言ってしまえば、存在感が、放つオーラが、「カッコイイ」・・・。
・・・と素直に言うのは、なんだか悔しく照れくさく躊躇してしまうけれど、やはり一本筋の通った男らしさを感じさせてくれる稀有な男性だと思う。
(別にファンではないけれど、やっぱり「カッコイイ」ということは認めなくてはね。)
私にとっては・・・なぜか少しだけ、存在感が空に似ていると感じる男性。

彼は、ドラマなどで見せるいわゆるキャラクターイメージの固定された感のある「キムタク像」を、この映画では打ち破ろうとしたのではないだろうか。
この映画での木村拓哉は、目の見えなくなる下級武士の役だった。
持ち前の容姿の美しさや華やかさや男前な雰囲気は、むしろ消されていたように思う。目の下のクマ、無精ひげにみすぼらしく乱れた髪や服装。
でも、見えないはずの目に宿る、強い強い光があった。
怒り、絶望、悲しみ、孤独・・・どうにもならない運命に翻弄される人間の苦しみを、彼の目の光は雄弁に見るものに伝える。
木村拓哉の魅力は、この、「目の力の強さ」にあるのだろうと思った。
人間として決して譲ることのできない大切なもの。
命をかけても・・・命を捨ててさえも、守りたいもの。
それが、「武士の一分」。
「プライド」という言葉が一番近いだろうか。
視力を失い、仕事をするすべを失い、妻を奪われ、生きる希望さえ持てない絶望の中にある人間が、絶対に果たさなくてはならないと自分自身に誓ったことは・・・騙され陵辱された愛する妻の仇を討つことだった。
顔や言葉には出さないけれど、抑えた演技の中に、深く妻を愛する心が痛いほど伝わってきた。
「男とは、こうあるべき(人としてこのように生きるべき。このように妻を愛するべき)」ということを・・・感じさせてくれた演技だった。
山田洋二監督が、木村拓哉を選んだ理由。
それは木村拓哉が、まごうことなき「男」、女性にとっての「男」の元型(=アニムス)であるからだろう。


●女優「檀れい」さんのこと
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清楚で素朴でかわいらしい・・・と思ったら。
彼女のことはこの映画ではじめて知った。いったい、こんなにかわいらしくて、愛らしくて、けがれていない清楚な雰囲気の女優さんが、どこに隠れていたのだろうと驚いた。何とも素朴で、素直な雰囲気。失明した夫を、一途に愛するいじらしさに、とても好感が持てた。
でも、先日「オーラの泉」という番組に出演されている姿を見て、驚いた。映画と同一人物とは思えないほど、印象が違う!!
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実はゴージャスで華やかで強い!
宝塚の娘役トップの出身だということで、そこで苦労された話をしていた。
くっきりしたメイクも、華やかに巻いた髪型も、身体にフィットした紫色のフリルのついたドレスも、映画の「加世」とはまるで別人だった。
女の園・宝塚の厳しい階級社会を勝ち抜いて、その頂点に君臨していた人だけあって、とても華やかでゴージャスで美しく、強い人だった。女王様のよう。
つまり・・・自分とは全く別の人物になりきることができるだけの演技力のある素晴らしい女優さんなのだろう・・・。これからの活躍が楽しみ!

●感想
私は同監督の映画「たそがれ清兵衛」(私の大好きな宮沢りえさんが出ている!)よりも、個人的にはこの映画が好きだ。

時代劇ではあるけれど、テーマは普遍的なもの。
「個人の心の中にある譲れない一点」の問題と、「愛」が描かれていた。

「愛」とは、やはり、「許すこと」かもしれない・・・。
と、この映画を見て考えた。
許すことは、なかなかに困難なこと。
特に、愛する妻が他の男と・・・となると、その苦しみを越えて彼女を許し、なお愛するのは、至難の業だろう。
その困難なことをやり遂げた「本当の意味で強い男」が描かれている。
剣の強さが、男の強さではない。
「許すこと」「愛すること」を貫けるのが本当の強さなのだ、と、この作品は言おうとしているのだと思った。
私は強くあれるだろうか。
私の愛する人は、強くあってくれるだろうか。
お互いに、何度でも許し合いながら、愛し合い続けていくことができるだろうか・・・。
夫婦になるということは、きっと二人でその困難なことに一生をかけて挑戦していく、ということなのだろう。

脇役がさすがに素晴らしい。小林稔侍に緒方拳、桃井かおり。特に、木村拓哉に仕える徳兵の笹野高史は抜群の存在感ととぼけた味で秀逸だった。
ただ、坂東三津五郎は悪役にするには品が良過ぎたかもしれない。憎めない悪役では、切る意味がない。もっと適役が他にいそうに感じるけれど・・・。
つがいの小鳥、風の音、枯れ葉の落ちる様、・・・さまざまに細かなところまで心配りの行き届いた丁寧な作品だと感じた。
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2006/12/21 (Thu) 「人生は奇跡の詩」

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冬の寒い日に、日比谷で心の温かくなるような映画を2本見た。
「武士の一分」と、「人生は奇跡の詩」。

どちらも、真剣に妻を愛する男の生き様を描いた映画だった。
何気なく両方立て続けに見て、あとで同じテーマの作品だったと感じた。

饒舌でウィットに富んだ愛情表現豊かなイタリア人と、寡黙で照れ屋で実直な日本人・・・という差はあれど(かなり大きな差だなぁ・・・笑)、「愛とはこうあるもの」・・・と思わせてくれる2作品だった。
(そういえば、メグ・ライアン主演の「男が女を愛する時」という映画も好きだったなぁ・・。アル・パチーノがアル中になってしまった妻を愛し続ける話・・・。他にも同じテーマの映画、探せばたくさんあるかもしれない。愛は永遠のテーマだな・・・。)
(「武士の一分」についてはまた別に書きます。)

★映画 「人生は奇跡の詩★★★★☆

公式HP http://www.movie-eye.com/jinsei/
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「心が君に届くまで、僕は愛を送り続ける。」

●ストーリー

ある日の深夜、大学教授で詩人のアッティリオ(ロベルト・ベニーニ)のもとに電話が鳴り響いた。イラクの詩人であり友人のフアド(ジャン・レノ)からで、仕事のためにイラクに滞在していたアッティリオの妻ヴィットリア(ニコレッタ・ベラスキ)が戦渦に巻き込まれ意識不明の重体だということだった。生涯愛し続ける一人の女性のため、危険を顧みず戦地へ向かうアッティリオ。妻のため、愛の言葉と想いをこめて看病をするが・・・。

●感想


監督は、私の大好きな映画「ライフ・イズ・ビューティフル」のロベルト・ベニーニ。
相手役はもちろん、私生活でもパートナーのニコレッタ・ベラスキ。(彼女は彼のミューズなのだろうなぁ・・・。「ライフ・イズ・・・」では「お姫様!!」と呼ばれていたし、この映画の中でも、彼が毎日夢に見る結婚式での相手、理想の女性として出てくる。)
「ライフ・イズ・・・」でも見られたような、不器用な男の一生懸命な愛とその背後にある戦争。いたずらのような楽しい伏線が張り巡らせられ、ただひたすらに妻を愛する男の一途な、そして危険を顧みない精一杯の行動がユーモアたっぷりに描かれている。
彼のあまりに雄弁なおしゃべりと、やんちゃないたずらっ子のような必死の行動がおかしくて、笑ってしまい、でも笑顔のままなぜか涙が出る・・・。そんな映画。
「愛する人のためならば、どんなことだってできるのだ。」という一貫した姿勢に、心を動かされる。
愛されるというのは、なんて、幸福なことなのだろうと・・・。

「…僕が太陽を好きなのは、太陽が彼女を照らすから…」
こんな美しい言葉・・・。胸を打たれずにいられない。
ラストの、羽の雪が降り、花の咲き乱れる庭で妻のおでこにキスをする・・・というシーンの美しさはまるで夢の世界のようだ。
しゃべり続ける男、大げさな愛の表現、というのは、日本人の感性には合いづらいかもしれないけれど・・・でも、私は見終えたあと、とても心が温かくなり、幸福を感じた。

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2006/12/20 (Wed) Diamond

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やっと落ち着いた気持ちで、パソコンの前に坐ることができた。
仕事の大きな山をようやく片づけ、少しホッとした気持ちでいる。
「曽根崎」の舞台の公演で一週間お休みをした分、復帰後の仕事は多忙を極めたけれど、何とか乗り切ることができてよかった・・・。
もうほんの少しだけがんばれば、冬休みになる。

ブログを書かないで(書けないで)いた日々、ほんの二週間ほどだけれど、そのあいだに私にとっては本当に色々なことがあった。
ここに書けることもあるし、書けないこともある。

体調のこと。
家族のこと。
仕事のこと。
踊りのこと。
心のこと。

猫の大手術。
父の入院。

良いこともあった。
うれしいこと・・・。
幸福だと心から感じたこと・・・、たくさん。
優しい人の温かい手に、温かい声に、温かい笑顔に、温かい心に、生きる力を吹き込まれた時間。
未来への希望。
そして、悲しいことやつらいこともあった。
自分の、精一杯だけれども結果的にいい加減な生き方の報いを、残酷な形で受け取らなくてはならなかった。
人間は生きる限り罪を重ねずにはいられないものだという思いが、胸に突き刺さるような痛みとして感じられた。


冬の日の柔らかい日ざしのように、ほんのりと染みてくる幸福な時間。
いちょうの葉はほとんど落ちきって黄色い絨毯となり、十二月も半ばを過ぎたというのにまだ残っている赤いもみじが、かつて見た夢のワンシーンのように光を透かして美しかった。
蜜の入った林檎。濃厚に甘い蜜柑。宝石のように光るみずみずしい苺。
ガラスのコップに入った水はよく冷えていて、乾いたのどと、ふとすると涙ぐみそうになる心を潤してくれた。
タマゴのようなふわふわの甘いお菓子の中には、白いクリームの優しく懐かしい味。
ロダンの彫刻のタイトルは「接吻」。愛し合い唇を重ねる恋人同士の、お互いをいだき合う腕の重なりの精確さと背中の美しい筋肉の流れ。この二人は、永遠にこのまま、すき間なくぴったりと抱き合い続けるのだ。
キリストを抱く聖母マリアの絵はピエタ。マリアの目には涙。スペインの聖週間セマナ・サンタのビルヘン・マリア(嘆きの聖母像)を思わせる。サエタ。
ゴッホの描いた野薔薇の絵は、小さいけれど香り立つように新鮮。
街はすっかりクリスマスの準備が整い、澄んだ冬の夜の空気にイルミネーションが美しく輝く。青白い光はまるで無数の星が樹木に宿ったよう。蛍のようにはかなげなのに、でも、力強くて静か。

光を浴びるとダイヤモンドは、まるで人間の心のように、そして世界のように、宇宙のように、複雑で豊かな色彩を放つ。
その光の中には、たくさんの、言葉にはし尽くせない想いがある。
それらをひとつ残らずすべて丁寧に汲みとり、大切に胸にいだく。
私は、わがままな自分の心の中の強い願いを、静かに頑固に貫いた。
・・・とても特別。
・・・
なのに何より自然。
運命は、偶然ではなく必然だと、やはり感じる。
それは私に大きな喜びを、・・・哀しみを伴う大きな大きな喜びを与えてくれた。
困難な現実の苦しみの中で、「許し」ということを、祈り求めた。
眠れない夜の長さを・・・知り、でも、その私の心に寄り添おうとしてくれる存在のあることに救われた。
「共に喜び、共に泣く」という、私にはとうていできないことを、心を尽くしてしてもらった日々だった。

私の力の及ばぬところで、思いもかけない出来事に見舞われた。
でもそれもすべて必然。
なるべくしてなっていく。そうなるしかなかった方向へ。
そして、何でもないような、これまでの延長のような日常もあった。
そんな風に毎日は、たくさんの出来事というしずくがひとつずつ集まり、人生という大きな流れを創っていく。

私はいつも明るくありたいと願った。
自分に与えられるさまざまなことを、すべて感謝して受け取り喜びたいと。
どんな出来事であっても、一瞬ごとのかけがえのない人生の時間を、大切に胸にしまい、忘れたくない。

そして、考えなくては。
どうありたいか、どうすべきかが、私にとっては大切だから。
そしてやはり私は、これまでの私がそうなっていきたいと願っていた道を選び進んでいくのが私の運命だと・・・。


このブログには、できれば、本当のことだけ書きたい。
あとで読み返した時に、何が本当だったのかが分からなくなってしまうことがいやだから。
ここは私の、心と成長の記録の場。
今、ここにこうして書いているのは、きっと未来の私のために。
だから、私自身のために正直でいたいと思うけれど・・・。
でもここは不思議な場所。
ここだから書ける。
ここだから書けない。

時間というのは、物理的な長さとは関係なく、密度によって感じ方が変わるものだとしみじみ感じた日々だった。
長い長い、そしてあっという間の日々。
忘れられない、忘れてはいけない出来事。

このブログでの空白の日々にも、無数の優しい手があちこちから私に向かって伸びていたことを感じていた。
友達や、周りの人々。
何気なく、でも温かいメールや手紙をもらったり、優しい言葉をかけてくれたり、ただ笑って楽しい時間を共有してくれたり。
でも、返事も書けず、出かけもせず、不義理を重ねてしまった。
そんなことするなんて私らしくない。(・・・と言っても良いかな。)
みんな、ごめんね。

でも、ここに向き合える今日が来るまでに、時間が必要だった。
単純にとても忙しかった。
そして、向き合えなかった。
「そんな時があってもいい」と、自分で自分を許すことを許してください。
手帳も、やっと新調した。
やっと少しずつ、次に向けて、未来に向けて、時間が進み出す。

2007年、この手帳にいい日々が刻まれいていくようにと祈る。

私がどうしているか、元気が無さそうだとか忙しそうだとか、べつに知っているわけでもなく、ただただシンプルな好意から温かいメールをくれた大好きな人たち。そしてかわいいクリスマスカードを送ってくれた人に、これから返事を書こうと思う。

「みんな、元気ですか。
私は元気です。
そして、色々あるけれど、
それでもやはり、
とても、
とても、
幸せだと感じています。
生きていることを、
心からうれしく思っています。」


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        ゴッホ「ばら」                  ロダン「接吻」


2006/12/19 (Tue) Kyrie

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Kyrie
Kyrie eleison.
Christe eleison.
Kyrie eleison.

主よ、あわれみたまえ。
キリストよ、あわれみたまえ。
主よ、あわれみたまえ

私は罪人のように嘆き
罪を恥じて顔を赤らめます
神よ、許しを請う者に慈悲をお与えください。
私の祈りは価値のないものですが、
優しく寛大にしてください。
私が永遠の炎に焼かれないように。


2006/12/05 (Tue) 「フラメンコ曽根崎心中・2006」終演


ありがとう・・・・。
また「曽根崎」でお目にかかれますように・・・。


●「曽根崎」千秋楽終了、ありがとう!!

おかげさまで、「flamenco 曽根崎心中」の今年の東京公演が無事に終了いたしました。
見に来て下さった方、応援して下さった方、支えて下さった方、励まして下さった方、本当にどうもありがとうございました。
千秋楽は、鳴りやまない温かい拍手の中、総立ちのスタンディングオベーションで終えることができました。客席で拍手して下さる方々、手を振って下さる方々がよく見えました。みなさんのお顔を見ながら、胸がいっぱいになりました。
ありがとう。ありがとう。ありがとう・・・。

マミ&ヒロ先生。
一緒に踊った大切な踊り隊の仲間たち。
最高にゴージャスで人間的にも魅力たっぷりの音楽隊ミュージシャンのみなさん。
いつも素敵な阿木さん宇崎さん・その事務所関係の方々。(浅野さん。橋爪さん。かわいいナベちゃん。美味しいお昼をつくって下さったノーベンバーのみなさん。)
舞台総括の赤木さん。舞台監督の青木さん。とりいさん。照明の井上さん。小保内さん。美術の江頭さん。音響の金田さん・有沢さん。頼もしいキリコさん。
いつも本番前に私たちの帯を結んで下さった衣装のれんこさん。
新しい遊女の衣装をつくって下さったチャコット衣装部のanegoミコピン姉さん、ばんちゃん。
きれいなメイク、さらにドジな怪我のあとを上手く隠して下さったチャコットのメイクの酒屋仁さん、かなえさん。
心配り細やかに、優しく、温かくお手伝いをして下さったみなさん。(ママさん。ちいちゃん、ともちゃん、岩淵さん、愛ちゃん、みえこさん、めめ★さん、かるべさん、林さん、みとちゃん、まりちゃん、ひでちゃん、お名前をあげられませんでしたが他にもたくさんの大好きなみなさん。)
本当にありがとう!みんな大好きです。

インターネット経由でも、見て下さった方の温かい感想をたくさん拝見することができました。
ありがとうございました。

●「曽根崎」の儀式

私たちがいつからか、本番が始まる前に必ずおこなう儀式があります。
衣装を着終えた頃に、マミ・ヒロ先生が私たちの楽屋にいらっしゃいます。
そして、踊るメンバー全員で手をつなぎ輪を作ります。
先生から、一人ずつの目を真っ直ぐ見つめながら、
「昨日の良かったことも悪かったこともすべて忘れて、今日が初演のつもりで、丁寧に大切に踊りましょう。」という一言があります。
そして「よろしくお願いします!」の言葉をきっかけに、つなぎ合った手をギューッと強く強く握り合ったまま、その手を天へと突き上げます。
「どえらいものを打ち上げてやるぞ!」っていうような気合いの共有。
しばらくグーッとパワーを交わし合って。
そして手をほどき、大きな拍手でおたがいを励まし合って。
いざ、舞台へと向かうこの瞬間が、とても好きです。


●三十三回目、そして「西国三十三カ所巡り」

今年の千秋楽(十二月三日・銀座ル・テアトルにて)は、2001年の初演から皆勤賞で出演している私にとっては、三十三回目の「flamenco 曽根崎心中」でした。
三十三回目・・・。
曽根崎」においては「三十三」はちょっと特別な数字です。
作品は、「西国三十三カ所巡り」という巡礼によって幕を開けます。
これがいわばプロローグ。
「西国三十三カ所を 巡り 巡ってホーイホイ・・・♪」と始まります。
ここでは、「一番 天満の太融寺」から、「十八番 生玉本生寺」までが踊られるのです。

「恋の菩提の橋として 観世音菩薩のありがたさ
西国三十三カ所を 巡り 巡ってホーイホイ・・・」
(上の写真はまさに「ありがたさ・・・・」の部分を踊っているところです。)

巡礼の列が十八番の「生玉本生寺」まで来たところで、お初と徳兵衛が再会し、ここから物語が始まります。そして、二人の心中までの流れが、そこから怒濤のようにとどまることなく高まりつつ一気にすすんでゆきます。
そして最後、とうとう二人が心中を果たし、魂が天に昇っていったことを見届けたあと、そこからエピローグとしてふたたび「西国三十三カ所巡り」に戻ります。
今度は「十九番」から「三十三番」まで・・・。

「十一面観音の情けで のちの菩提たのみまする
西国三十三カ所を 巡り 巡ってホーイホイ・・・」

「巡り 巡ってホーイホイ・・・」
という曲を初演のための一回目のレッスンではじめて聴いた時、そして、その曲に合わせて踊るのだといわれた時、正直に言って驚き笑ってしまいました。何しろ、私たちはフラメンコダンサーですから、「まさか、こんな曲で踊るなんて!」と思ったわけです。
でも、その時のことが嘘のように、今では私たちにとっての「曽根崎」の舞台へ足を一歩踏み出す瞬間であるその巡礼のシーンが、とても大切で神聖なものになりました。

開演前のベルが鳴ると、舞台そでの闇の中に立ち、程良い緊張と静かで落ち着いた心の中で、必ず毎回手を合わせて何か大きなものへと祈ります。
「高い、高いところへと、美しい魂が届くような時間を・・・」と。
何か大きなものに見守られている安心感をもって、舞台へと出ていきます。

開幕の時が訪れ、舞台中央で、般若心経の書かれた響さんの和太鼓が暗転の中、空気をとどろかせていく。
舞台の上には、愛しあう二人の姿が暗幕の向こうに浮かび上がる。
そして、太鼓の最後の音が空気をふるわせた次の瞬間、拍子木の音と共に私たちの「西国三十三カ所巡り」が始まる。
曽根崎のコピーである
「地獄のように美しく 極楽のように恐ろしい」
という言葉を、もっとも体現しているのがこの場面だと言えるかもしれません。
様々な人がいて、それぞれの思いがあり、みんな小さな幸福を、ひそかに祈るように大切に抱きながら、一度きりの夢のような人生を生きている・・・。そんな場面です。
舞台そでから出る瞬間に見える舞台上の空間には、ほんのりとドライアイスが白く煙り、そこに光が、天からのはしごのように降ってきています。その美しい空間に出ていく瞬間がもっとも張りつめていながら優しい、神聖な気持ちになる瞬間です。
心の中から「ほう・・・っ」とやさしい吐息が漏れるような・・・。
夢の中でうっとりと美しい雲の上を歩いているような・・・。
丁寧に踏み出す足の一歩が、そして、指の爪の先の先までが、まつげのふるえまでが、繊細でありたいと願いながら踊ります。


わたしが繰り返す振りは、両足をそろえてつま先立ちになり少し前方の床をのぞき込むように背中を柔らかく丸めて、両手の指の背で柔らかく頬を撫でる振りと、回転して床にしゃがみ、前に差し出した手で大切な何かをそっと拾ってくるような・・・お水を手ですくって飲むような振りです。
(動きを言葉で説明するのは難しいですね。)

この仕草をやるたびに、目の前に何か漠然と美しいものが見える気がします。
一言で言ってしまえば、無量の光・・・・・。
(それは、美しい照明のおかげかもしれません。細かいところにまでプロの情熱とこだわりの行き届いた仕事がなされているところも「曽根崎」がいい作品になるための欠かせない要素。初演から照明を担当して下さっている大ベテラン・まさに照明の匠の井上正美さん。素晴らしい照明の芸術家です。)

この巡礼の場面は、象徴的で、ヒロ君先生の大のお気に入りの場面です。
「見に来る人たちは、それぞれの生活を持ち、街の喧噪の中を抜けて劇場に到着する。そのお客さんたちの心を、そっと、『曽根崎』の世界へといざなっていく役割があるんだよ。」
と言います。 



・・・あれれ。
「三十三カ所巡り」の巡礼シーンについてずいぶん長くなってしまいました。(笑)
いつかまた、続きを書くでしょうか。
書き出したら書ききれないほどさまざまな思いがあります。

「曽根崎」が終わって、無理やり強引に現実に引き戻され、たまった仕事に忙殺されながらも、ふとした瞬間にまだ心はあの世界へと戻っていきます。

うれしいことに来年もまた、数カ所、地方公演をすることがすでに決まっています。
また「曽根崎」の世界に戻れるのだなぁ・・・。
次の「曽根崎」まで、しっかりと生きていかないといけない。
どんどん純化されていく「曽根崎」に対する畏敬の念と親愛の念を持って、私の日常を丁寧に大切に生きていこう。
真剣に生きること。
真剣に愛すること。
未来を信じること。
たましいの浄化。
これが「曽根崎」の、そして私のテーマです。


2006/12/01 (Fri) 偶然はない

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これ見ると元気になる~!
宮沢りえさんからのバラ・・・。


今日から十二月。
いい十二月になりますように・・・・・・と、心から祈る。

自分の身に起きたことは、きっと偶然ではなく必然。
私が何かに気づき、成長するために起きた出来事・・・。
不運を嘆くよりも、そこから学び乗り越える強さが欲しい。
起きてしまったことはもう変えられないので、これからどうするか・・・。
私にできること・・・。
みんなに心配をかけずに、波立たない晴れた日の湖のように静かで落ち着いた明るい心を常に持つこと。
そして、「曽根崎心中」の公演を、全身全霊で一回一回丁寧に頑張っていくこと。
たくさんの方が見に来て下さることに心から感謝して、この舞台に立てることを目一杯楽しみ味わい尽くしたい。
あと三日間、あと四回!!
そして、四回とはいえども、すべて「一回ずつ」なのだ。


今、世阿弥の『風姿花伝』(花伝書)を読んでいる。
能について書かれた本だけれども、芸術の道に生きる人間にとっては胸に響くことばかり。すべてが実用的と言っても良いほどで、身につまされ、教えられることが多い。
大切なのは、「花」を咲かせること。
「まことの花」のある踊り手になりたい。
私は、どんな「花」を、咲かせることができるのだろう。
願わくば・・・・真善美なる「花」を。


さぁ、元気に頑張ってこよう!


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プロフィール

mar(マル)

Author:mar(マル)
☆大切なこと
「真・善・美」な道を求めて日々成長すること。

☆好きな言葉
「世界と人生を愛すること 
苦しい時にも愛すること 
太陽の光を感謝して受け取ること 
苦しみの中でも微笑を忘れないこと」
(ヘルマン・ヘッセの言葉) 

☆好きなこと
・空が好き。
・本(古典・純文学系)が好き。
・きれいな音楽が好き。
・いい映画や、美術、旅行も好き。
・木に咲く花が好き。
・花の写真を撮ることが大好き。
・色々考えることが好き。
・文章を書くことも好き。

☆好きな本
・ヘッセ『デミアン』『春の嵐』
・リルケ『若き詩人への手紙』
・高村光太郎『智恵子抄』
・三浦綾子『道ありき』『氷点』『泥流地帯』『塩狩峠』
・倉田百三『出家とその弟子』
・ドストエフスキー『白痴』『カラマーゾフの兄弟』『罪と罰』
・ロレンス『チャタレイ夫人の恋人』
・トーマス・マン『トニオ・クレーゲル』
・ミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』
・宮沢賢治『銀河鉄道の夜』
・ゲーテ『若きウェルテルの悩み』
・サンテグジュペリ『星の王子さま』
などなど。

☆好きな映画

『初恋の来た道』『ポンヌフの恋人』『ローマの休日』『アメリ』『父と暮らせば』『ノッティングヒルの恋人』『ライフイズビューティフル』『ベティーブルー』『存在の耐えられない軽さ』『嵐が丘』『LOVERS』『汚れた血』『イングリッシュペイシェント』『エトワール』『風と共に去りぬ』など

☆好きな音楽

・グレン・グールドの弾くバッハ(特に『ゴールドベルク』)
・マドレデウス

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