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2006/08/30 (Wed) 喜び・悲しみ

bot09.jpg

「いったいどうしたらいいのかなぁ・・・。」
ラファエロ「サン・シストの天使たち」


私はクリスチャンではないけれど、聖書の中にある

喜ぶものと共に喜び泣くものと共に泣け
(ロマ12・15)

という言葉が大好きだ。
こんな風に生きることが出来たら、どんなに良いだろう、と思う。


それにしても今、しみじみと感じるのは、この言葉を実践することの難しさだ。
特に、「喜ぶものと共に喜ぶこと」「泣くものと共に泣くこと」を同時に要求される場合、本当に困難を感じる。

たとえば・・・二人の友人が目の前にいるとして。

・一人は試験に合格し、もう一人は不合格であった時
・一人は流産し、もう一人は出産した時
・同じ男性を愛し、片方が結婚し、もう一方は失恋した時・・・

例はいくらでも思いつくけれど、そんな時、私はどうしたらいいのだろう。(今、実際にそれに似た状況にある。)
きっと、喜ぶもののことは「喜んでいて幸せなんだからいいや!勝手に喜んでいて!」と、ほったらかして、お祝いを心から言うこともできずに、泣く側の立場に立ってしまうだろう。
目の前で胸を痛め泣くものの心に、共に涙を流しながら寄り添うことは、こんなわがままな私にでも、出来そうに感じる。泣くものが自分にとって大切な存在であれば尚のこと。

むしろ困難なのは「喜ぶものと共に喜ぶ」ということだ。


自分が幸福で充たされている時には、そう難しくなく、その人の幸福を共に喜ぶことが出来るかもしれない。
でも、そうでない時は・・・?
もし「泣くもの」が自分自身であった時ですら、私は人の幸福を共に大喜びしてあげることが出来るだろうか。
たとえば、さっきの例に置き換えれば、

・自分は不合格だったどうしても行きたかった大学に、友人がすんなり合格した時。
・私が真剣に恋していた人と、友人がつきあい始めてしまった時。
・私は子供が欲しいのに流産して泣いているのに、友人が出産して喜んでいる時。

・・・そんな時、「喜ぶものと共に喜ぶ」ことは困難な大チャレンジになる。

「イエスだったらどうするのだろう・・・。」と、考える。
目の前に喜んでいるものと、泣いているものがいたら、彼は一体どうするのだろう。
きっと・・・泣くもののそばに、ただひっそりと寄り添うのではないかと・・・。そして共に涙を流してくれるのではないかと・・・。そう思う。
それはあくまでも私の希望かもしれないけれど、そんな風であって欲しいと願う。

「喜ぶものと共に喜ぶ」ということは、なかなか困難なことだなぁと思う。
(逆に自分とまったく利害のない場合は割とたやすくできるかもしれないけれど。)
でも、誰かの幸福の影で人知れず涙を流している人がきっと必ずいるのだ。

そう思うと、自分が幸福な時には、むしろ本当に心して謙虚でなくてはならないと思う。良いニュースであればあるほどに、大はしゃぎして大騒ぎして喜びを吹聴したりせずに、慎ましやかにしていたいと思う。
「私のこの素晴らしい幸福を、あなたも共に喜んでください!!」なんて押しつけがましいことは決してしないように、幸せな時ほど謙虚でいられるよう気をつけて生きたいなぁと思う。


・・・たった一行のこの言葉を、今本当に重く感じている。
喜ぶものと共に喜び泣くものと共に泣け
いつか・・・これを、いついかなる時も実践できるような、そんな大きな私になれたらいいなぁ・・・。(今はまだ・・・ダメだなぁ。)

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comment

mar様こんにちは。そしてごめんなさい。
そうですね、突然書き込むとびっくりしますよね。実は私の家人はあなたのご友人です(敬語が変)。このブログを紹介されて一緒に楽しんでおりました。
さいあさひこの「さ」の字を別のひらがなに変えていただくと私の本名になります。50分の1ですので時間があるときに推理してください。

さいあさひこは今度小説ができたら使おうと思っていたペンネームです。さいころのように転がしてみないとどの目が出るか分からない、行き当たりばったりの人生を歩んできたので、これはいい「あて字」だと悦に入っていたのですが、小説のペンネームとして使われることはもうありません。

・・・無駄話はさておき。「喜ぶものと共に喜び、泣くものと共に泣け」
私の考察ですと、この言葉は一見他者との同調・共感を美徳としているような印象ですが、よくよく裏を読むと、「他者に影響されず自分でしっかり立て」という厳しい言葉に思えます。なんとなれば、marさんのおっしゃるように他人の喜び、悲しみを「100%素直に」感じることは不可能で、よっぽど自分に自信があるか、自己を確立した達観した人じゃないと無理だと思うからです。

下世話な例しか思い浮かびませんが、もし私の親友が宝くじを当てたら、私は「よかったねー」とは思いますが、心のどこかで「妬む」でしょう。
大事な人を亡くした友人がいたとしても、かわいそうと思うのは思いますが私はその喪失感に完全にシンクロできるとは思えません。

人は社会に属していると、形而上、形而下の両方で他者と自分を比較しながら生きていると思います。日本人は特に「人並み」でいい、という表現を使いますが、「人並み」と言っている時点で比較していますし、競争心もありありです。他人との比較をしなくなるのは所謂「悟り」の境地ではないでしょうか。そうでなければ「引きこもり」です。

で、何が言いたいかというと、他者の喜び・悲しみへの感情は、その他者との比較対照の上にあるので、凡人にはパーフェクトな同調が難しいと思うのです。もし私が自己に完全な自信があり、何を言われようが何が起ころうが動じないしっかりした根っこを持った人間だとしたら、他者の喜び・悲しみを自分と比較することなく素直に共有できると思います。
でもmarさんがおっしゃるように、これは非常に難しく、私には一生無理だと思います。

注)私は決して冷徹ではありませんよ。marさんがご友人(私の家人)の心配をなさると困るので注釈しておきます。

では、今後も私に考察するテーマを与えていただけるよう、ブログの更新をがんばってください。応援しています。私が太刀打ちできるテーマでしたら、及ばずながら参加したいと思います。

賽麻彦
2006/08/31 11:00 | 賽麻彦 [ 編集 ]

あああ~~~!!もうわかっちゃった(笑)!!
奥様は私の愛する、大切な大大大親友ではないですか!!!
あらためて、お久しぶりです。お忙しい中コメント下さってありがとうございます。お元気ですか?
そういえば、つい先日、二人でブログを見てくれていると彼女が言ってくれたばかりでした。
・・・ということは、私が具体的に何の件についてこれを考えたかもすでにおわかりですね。(ふふふ。)
それでは、こちらのブログにお引っ越しした理由もご存じですか?・・・そのような訳で、今回は個人情報の保護に気をつけながらやっていこうと、つくづく思っているところなんです。だからここでは、踊りのジャンルと、仕事については無謀にも禁句でやっていこうと思っているんです。(笑)ということで、ナイショでお願いしますね♪

さて、やっと本題についてですが、人間は決して自分自身の心から離れることは出来ないでしょうね・・・。ある程度の「自尊心」「誇り」(プライド)と、自分は自分、他人は他人という割り切りがあっても、でもやはり、誰かの勝利や輝かしい幸福が、それらを求めても持つことの出来ない自分の胸の痛みとなってしまうことから逃れられないでしょう。
私は、「同情」ということの大切さを大学時代に先生に教えられました。「同情とは、情けを同じくすること。相手の心の痛みを自分の痛みとすること」と・・・。作家の大江健三郎は「同情とは想像力である」と書いています。人間とは自己中心的なものの見方からなかなか抜け出せないので、いちいち他人の立場に立って物事を見つめ直してみなくては、その人の気持ちを心から理解することが難しい。でも、真の同情を出来た時、・・・その時は相手のためではなく自分自身の心と幸福のためにすごく良いだろうと思うのです。
今回は、「泣く側」に同調するのは私にとって自然な、心からの思いでした。私自身の痛みでもあり、また、その人のことが大好きで大切だからです。でも、やはり喜ぶものと心から共に喜ぶ・・・と言うことをするためには、正直な心をグッとセーブして、人間として一段階上に昇らなくてはなりません。ここで私という人間が問われている、とまで言っては大げさでしょうか。

目の前にあることにだけ、視野を狭くして向き合ってしまうとどうにもならない苦しみにとらわれてしまうと思うので・・・私は私で、私の人生を生ききってみて、そこで「よかった」と言えるように、大きな目で物事を見つめられるようになりたいなぁと思います。
誰もがそれぞれに、持っているもの持っていないものがあって、手に入れられるもの、入れられないものがある。そのことで羨んだり妬んだりしないでいたいです。私は私にしかできないことがきっとある。そして、心から、人の心に寄り添える自分になりたいものです。

応援ありがとうございます。ブログも踊りも自分のペースで頑張っていこうと思います。
私の親友を、支え励ましたくさん愛して大切にしてあげて下さいね。(もうしてくれてるよね!)
またどうぞいらして下さい。お待ちしています!
2006/08/31 12:45 | mar [ 編集 ]

 とりあえず、初めまして。

格率「喜ぶものと共に喜び、泣くものと共に泣け」を実践しようとするマルさんの姿勢に脱帽します。さすが「真善美」の看板を背負っているだけありますね。妥協を許せないでしょうかね。ある意味「汝の敵を~」より困難かもしれません。なぜなら形ではなく動機の純粋性が問われているからでしょう。喜んでいないのにしているような振りをする。こっちでは笑ってあっちでは泣くような八方美人的な偽善。果たして「ほんとうの」共感とは何か。考えようでは水と火を一緒にしたような重いパラドックスです。さて、どないいたしまひょー。

 ・得手不得手で役割分担をする。宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」もそうでした。泣くものとナミダヲナガシ、苦しむものとオロオロアルキでした。「喜ぶもの」には触れられていません。「世界ぜんたいが幸福」になるまでは、目をつむる。又は、某国の「喜び組」に任せる。

・完璧な他人との喜怒哀楽的同調は無理だと悟り、ボチボチ喜ぶ、ソコソコ悲しむ。ある意味「ほんとうの」同情といえるかも。(嘘泣きしてないから)


 ところが結局、悲しみを乗り越えるのは本人次第。喜びの余り天狗になり後悔するのも本人。人様はおせっかいの範囲を超えないようにスタンバイ状態が限界でしょうか?「塞翁が馬」の逸話通り出来事の評価は相対的です。「右手のすることを、左手に知らせてはならない」(マタイ6・3)系のひっそりと。これもまた凡人にはやっかいな格率ですがね。
 お邪魔してすいませんでしたー。ブログ開設祝いコメントでした。
2006/08/31 14:37 | ヨダカ [ 編集 ]

ヨダカさん

とりあえず、初めまして!!(*'ー'*)ふふっ♪
こうしてコメント下さったこと、とっても嬉しく思っています。色々とご心配をお掛けしたのではないでしょうか。済みませんでした。
これからは気楽に(?)・・・遊びに来ていただけるととっても嬉しいです♪
さすが!の、的を射たコメント、こちらこそ脱帽します。私の場合、「真善美」は、それこそ灯台の灯・・・というか、北極星のようなあこがれの遠い目標で、看板を背負うというところまでぜ~んぜん行っていないのが実情です。

だからせめてもね・・・偽善的な八方美人にはもちろんなりたくないけれど、意地で造り笑顔ぐらいは頑張って見せていたい。でも、それも出来ずに、何だか自分では必死の笑顔のつもりでも、相手が「本当に喜んでくれている訳ではないのだなぁ」と、気付いてしまうほどの奇妙にゆがんだ笑顔をしてしまう。
本当にわたしは、わがままさから抜け出せないで、よく言えば素直で正直なのでしょうが、なんでも顔に出してしまう。出さないつもりでも、出てしまっている。そのせいで随分と人を悲しませたり不快な思いをさせてしまったりしていると思います。
全く大人になれていないと、自分を反省しています。

昨日は「泣くもの」とたとえた友人に会いました。私の方がその人のつらい状況を思ってポロポロ涙を流してしまった。その友達は、私の涙を充分に感じとって一人ではないと思ってくれたかも知れません。
でも、厳しく考えれば、そういう時の私は、かなり相手と自分を重ねて見ているところがあると思います。だから、私は優しい、というよりむしろ、彼女のつらさを自分自身のつらさとして泣いている訳です。
でも、本人の方が私より数段、人間が出来ていて、とても強く明るく振る舞い、「喜ぶもの」に笑顔で普段通りに声をかけていました。彼女の笑顔を見ていたら、何だか私が逆に慰められ・・・あらためて自分を省みて未熟さをしみじみ感じました。

本当におっしゃるとおり、悲しみを乗り越えるのは、本人しかいないですね。ただ、悲しむ自分のそばに、共に悲しむものの存在があることが、何らかの慰めになりはしないかと、・・・そんな風に思います。

生きていくことがそもそも困難で不条理なことだから・・・そして、つらくて苦しいことも(そんな風に思いたくはないけれど)避けては通れないのであるならば・・・。そうだからこそ、不可能に思えるような「真善美」を志して生きたい・・・とそんな風に思っている青臭い私です。

宮沢賢治の「よだかの星」、お名前を拝見して読み返しました。泣けてきました。
「お日さん、お日さん。どうぞ私をあなたの所へ連れてって下さい。灼けて死んでもかまいません。私のようなみにくいからだでも灼けるときには小さなひかりを出すでしょう。どうか私を連れてって下さい。」

・・・私もいつか、無謀な高みを目指して生きていけば、小さなひかりを出すことが出来るでしょうか・・・・。
心の中ではそんな夢を見ながらも、現実にはひたすらどこまでも自己中心的でわがままで傲慢な自分との戦いです。

未熟者でお恥ずかしいばかりですが、これからもどうぞよろしくお願いします。
次回は『場所』ですね?
またお会いできる日を楽しみにしています。
2006/09/01 17:28 | mar [ 編集 ]

コメントが遅くなってごめんなさい。
ここ数日、PCを立ち上げていませんでした。

なるほど・・・難しいですね・・・

まず、maruさんが書かれていた「イエスはどうするだろうか」ということ。
これは両方と僕は思っています。彼は神ですから、不可能はないということですね。

maruさんがおっしゃる通り、喜ぶ者と共に喜ぶ方が難しいのかもしれません。
ただ、自分が悲しみのどん底にあるとき、悲しむ人を思いやる余裕がないというのも人間の現実でしょう。

話はそれるかもしれませんが、僕が教会にも通っていない頃、ある方から相談を受けたことがありました。その方は近いうちに洗礼を受けるとのこと。しかし、聖書に書かれているように自分はなれていないし、心の中には憎んでいる人もいる。こんな私が洗礼を受けても良いのだろうかと。

聖書も読んだことがない、教会にも通ったことのない僕は戸惑いました。
どう答えればよいのだろうかと。

考えに考えて得られた答えは、「聖書に書かれていること(とりわけ「○○しなさい」という、いわゆる戒め的言葉)は、人間には到底できないことである」ということ。出来ないからこそ「聖書」というものがあるんじゃないかと。出来るんだったら「聖書」なんていらないんじゃないかと。その方にはそれを伝えました。その後、やりとりは途絶えたので、どうされたかは分かりません。

maruさんもご存知の「塩狩峠」。あれでも主人公・長野信夫は聖書のみ言葉を実践しようとして挫折しますよね。

つまり、聖書が語っていることは、聖書に書かれている言葉の実践は人間的力ではどうしようもないんだよ・・・ということだと思います。旧約聖書の時代の人たちは皆、神さまから与えられた戒め(律法)を自らの力で守り行おうとしても到底できなかった。だからそのたびに謝罪の生贄をささげなければならなっかった。それを見かねた神さまがイエスを地上に送って・・・となるわけです。

ただ、信仰を持ったからといって、すぐ聖書の言葉通りに実践できるものではありません。
maruさんがテーマにされた「喜ぶ者と一緒に喜び、泣く者と一緒に泣きなさい」もそうですが、信仰的に未熟な僕には本当に難しいことと思っています。

思うに、「喜ぶ者と一緒に喜び、泣く者と一緒に泣ける」のは、信仰が熟して常に平安で安定している人だけに出来るのかもしれません。
自分が有頂天になっているとき、他の人の喜びなんてどうでもいいだろうし、ましてや悲しい人と共に悲しめることはできないでしょう。
逆に、自分が悲しみのどん底にいるときは、他の人の悲しみを共有している場合ではないでしょうし、ましてや人の喜びなんて喜べるわけはないですからね。
即ち、信仰によって自我を棄てられているかどうか、自分の状態に左右されずに共感できるのかが問われているのだと思います。
イエスにはそれが可能であったでしょうが、人間である我々には、信仰を持ったとしても難しいことであることには変わりないですね・・・

まとまりのないコメントでごめんなさい。
2006/09/03 01:27 | どやくん [ 編集 ]

ココさん、こんにちは。

僕はヘンチクリンですが、、ですが、正直に思う事を書きますね。傲慢だったらどうぞ怒ってくださいね。受け入れられなかったりしなたら、どうぞ流してくださいね。。

でも、僕は、あの一文を真に理解するためには、喜び、や、涙、それらの対象をよく考えないといけないと、そう思ってます。。だから、あの文は真善美が宿って初めて理解できる文であって、そうして初めて実践できる文なのだと思います。。

と、いうのも、ココさんが例に出したジレンマ以前に、僕はもう、躓いていまして。。(笑)
たとえば、家に押し入ってきて宝ものを盗んで喜んでいる泥棒と共に喜べるか、喜んでよいか、と言えばNOですよね。。一緒に喜んでしまったら、自らもまた泥棒になってしまいます。聖書はそんな不義な人たちを赦しなさい、とは言うでしょうけれども、不義と共に喜べとは決して言わないように思います。。(少なくとも僕の頭の中ではそうなっています。笑)

悲しみもまた同様に、その対象、が大切なのだと思います。。
流産も、ヘッセが書いた詩にあるように、それが母親の過失ではない場合、赤子が自ら、または、神に召されて息を引き取る場合は、悲しむことではないのだと思います。(母親の過失であったのなら、、母親は絶望へといざなわれるでしょうが、、きっといつの日か、赦されるのでしょうね。。)

何かの本で、夢にその子が現れてくれて、お母さん、悲しまないで、僕はあなたのお腹で生きる事が出来て幸せだったよ、僕は僕の生を全うしたのだから、この世に生きる意味を持って生まれ、その意味を全うしたのだから、どうか悲しまないで。と告げてくれた。そうして母親は救われた、と、そんな話を聞いた事があります。。

イエス・キリストの死=悲しみ、ではないように、失恋も、破産も、流産も、失敗も、悲しみでは決してないのですし絶望でも決してないのですから、、、むしろ、そこは泣くべき所ではないように思ってます。。同じように、宝くじに当たったからと言って喜ぶのも、ハーレムの中で暮らせるからと言って喜ぶのも、欲が強すぎる故の、愛がないゆえの、神さまから離れて堕落してしまった証なのだと思ってます。。

長くなっちゃいました。ココさんのお考えになったジレンマは、僕はその前で既に躓いてしまっているので、難しすぎてまだ想像もつきません(笑)
でも、、、、イエス・キリストがお喜びになり、お悲しみになる世界には、ココさんのお悩みになっているジレンマがないような、矛盾がないような、そんな予感が致します。

ではでは。ご機嫌よう!ヽ(*'-'*)ノ
2006/09/03 16:35 | よねくら [ 編集 ]

どやくん様

お忙しい中、誠実なコメントを下さって本当にありがとう!!
私もお返事を書くのが遅くなってしまってごめんなさいね。9月になってしまった(?)ので今までのようにのんびりした時間がとれなくて、ブログも色々書きたいことがたくさんなのに、眠くて眠くてジレンマ~~(笑)です。
「心は燃えていても、肉体は弱いのです。」(マタイ26・42)ですね。

そうですか・・・やっぱりイエスなら「共に喜び共に泣く」を、同時に出来るのですね・・・・。
何となく、私の貧弱な知識で捉えたイメージでは、彼(=イエス)は、静かで優しくて意志的で、でも、いつも哀しそうな・・・そんな印象なんです。(もし間違ったことを行っていたら、先輩、どうぞ色々教えてくださいね。)
深い深い哀しみの色をたたえた人・・・というイメージです。

三浦綾子さんの『母』のなかで、「イエス、涙を流したまふ」という一文が最後の方に出てきて・・・。それがとっても心に残っているんです。
長くわずらってきた女の人が、イエスの服のすそにでも触れたいと願った。それに気付いてイエスが振り返って、女の人を見つめて、一瞬にしてその人の悲しみや苦しみを解った。そして、涙を流した・・・。そんな場面だったと思います。
それを知った小林多喜二の母は、人のために生きた多喜二が権力によって無惨に殺された、そのどうにもならない苦しみ、哀しみを、共に泣いてくれる人がいるのだ、ということを知るのでした。
私もそれを読んで、「ああ、この人(人って言って済みません。)は、心から『共に泣いてくれる人』なのだ・・・。」と、そのことに強く打たれました。
そして、そんな人がイエスであるなら、好きにならずにはいられないなぁ・・・と、心から思いましたよ。

イエスが人と喜びを共にするシーン、と言ってパッと思い浮かぶのは、「カナの婚礼」の場面です。
母マリアと共に婚礼に出席したイエスが、お祝いの席で、母に請われて水をワインに換えてみんなに喜ばれた。何だか光に満ちた、幸福な明るい場面ですね。あれは、まだイエスの人生の初期の出来事ですね。
それからの彼の人生は、ひたすら苦難の中での歩みでした。

そう言われてみれば、どやくんさんのおっしゃる通り、聖書の中の言葉は、徹底的に実行しようとすれば、どれもものすごく難しいですね・・・。

「自分を愛するように隣人を愛しなさい。」
「してもらいたいと思うことをなんでも、人にしてあげなさい。」
「あなたの敵を愛しなさい。」
「右のほおを打つものには、左のほおも向けなさい。」
「許しなさい」

本当に、なんて素晴らしい教えだろう、そうできたらどんなに良いだろう、と思います。
でも、「うわ~~~~~、ごめんなさい!!」と、謝って逃げ出したくなります。
「努力はするつもりです・・・。」と、気弱に答えることしかできません。
『塩狩峠』の信夫は、三堀ではなく、愛するふじ子の隣人であって欲しかった・・・なんて、自己中心的な私は思ってしまったりします。
でも、自分を愛するものだけを愛するのは、本当の隣人愛ではないのでしょうね・・・。

「きょうだいの悪口を言うものは、地獄の火で焼かれろ。」と言うような過激な(!?)言葉を読んだ時には、子供の頃からきょうだいげんかをい~~~っぱいしてきたことを思い出してガックリしました。

そんな自分を思うと、とうてい願うとおりの自分になっていくのは果てしなく困難だなぁ・・・とおもっちゃますが・・・。
でも、そんな私の心を軽くしてくれることも、ちゃんとどやくんさんは備えてくれましたね。
不完全な罪深い人間の為に、イエスが代わって十字架に上がってくれた、だからすでに許されているのだ、ということ。
それって、あらためて考えるとものすごいことですね。

・・・でも、そこが私にとって一番の壁、克服できない関門であることも事実です。
つまり、・・・イエスは実在したでしょう、素晴らしい人間であったでしょう・・・私たちには不可能な高みにまで到達した人であったでしょう。そこまでは難なく受け入れられるのですが・・・。でも、私にとっては、いかなる偉大な思想家、哲学者、愛の実践者であったとしても、それを「神」というものと一体とすることが出来ない、そこがポイントですね。というより、「神」とは何かがわからない、だから、居るとか居ないとかも言えないし、その言葉を絶対的なものとして無条件に受け入れて寄り掛かってあがめることが出来ない。
信仰とは、もっと、シンプルな・・・素直な、理屈でない心にストンと落ちてくるものなのでしょう・・・。
私の道は、もう少し先まで見てみないといけませんね。まだ、『道ありき』の前半です。
なかなか進めないですね。ごめんなさい。

あれれ・・・私の方こそ、なんだか話がずれて来ちゃいました。(笑)
でもね、こうやって考える時間をもてることにとっても感謝しています。
イエスも、綾子さんも、本当に大好きなんですよ。
2006/09/05 00:41 | mar(マル) [ 編集 ]

しょうさんへ

コメント本当にありがとう!!
とっても嬉しかったです・・・。そして、しょうさんの最近のお勉強会が、しょうさんの心に及ぼしている影響を、何だかとっても嬉しい気持ちで考えています。

こういうことを一緒に考えてもらえるのは、本当にありがたいことで、色々な考えを聞かせてもらえると、そのおかげで私の考えも深まり、新たな扉が開かれていくのです。
だからね、絶対に受け入れられないとか、傲慢と思うとか、そんなことはないので、どうぞ安心して何でも言って下さいね。
それに、ぜ~んぜん、へんちくりんじゃないよ~!(笑)

私こそ、いっつも考えたらずなままに、書いてしまっているので、こうやって、様々なコメントをいただくことで、自分の書いた内容を見つめ直し、深め、ようやく少しずつでもどこかに辿り着いていけるような・・・。
そんな気がしているんですよ。
私こそヘンチクリンで危なっかしいことこの上ないのですが、これからもどうぞ、よろしくね。
( ´ー`)⊃⊂(´ー` )アクシュ

さて、しょうさんの書いたことで、ハッとしました。
そうだなぁ。・・・と思った。
というのは、一瞬「悲しみ」に見えることで、実際にその時は「悲しみ」として胸にのしかかってくることでも、後になって振り返ると一概には「悲しみ」であるとは言えないのだ、ということ。
そう、本当に、そうだよね。
・・・ちょっと分かっているつもりでいたのに、分かっていなかった・・・。
特に自分に関して言えば、つらかったことや悲しかったことが、どれほど自分を成長させ、多くを教えてくれたことか・・・。
そう思えば、すべては私の人生にとって必要であったと、そう思えるなぁと。
そういう考えで、あの前ブログの最後の記事、「それでも人生にイエスという」を、書いたつもりでいたのになぁ。(それもついこの間!!笑)
さすがはしょうさん。思い出させてくれてありがとう。

で、・・・そう分かった上での私の目標としては・・・。
「とりあえず、『今・この瞬間』に胸がいたい人の、そばに寄りそう」ということ。
世界中全員にはさすがにそうしてあげられないので、まずは身近な人からだけれど・・・。
その人にとって、その悲しみはその後きっと糧となり、新たなエネルギーへと変換していくでしょうが、でも、今つらい、その気持ちに寄り添っていたいなぁと思います。

新美南吉の「でんでん虫の悲しみ」という話が好き。(前にもどこかで書いたかなぁ・・・。)
あるとき、一匹のでんでん虫が、自分の背中の殻の中に『かなしみ』がいっぱい詰まっているということに気付く。
友達のもとを訪れ、「私の背中の殻の中には『かなしみ』がいっぱい詰まっている。もう自分はかなしくて、これ以上生きて行かれないのではないか。」と嘆く。
すると友達は、「それはあなただけではない、自分の背中にもまた『かなしみ』が詰まっている。」と言う。他の友達、他の友達、誰に尋ねてもみんな同じ事を言う。
そこででんでん虫は「誰もが『かなしみ』を背負って生きているんだ。私は私の『かなしみ』をこらえて生きるしかないのだ。」ということに気づく・・・。
かなしみを背負ったでんでんむしも、「それはつらいね」と、共にかなしむものの存在を感じることが出来たならば・・・、それは大きな生きるための力になるでしょう。

そうしてかなしみから立ち上がる力が出てきたら・・・その時、悲しんでいた側も「ああ、これは私の人生の成長のために、必要なことだったんだなぁ。」と思える時が来るかもしれない。

弱っている人を上手に叱咤激励することは出来ないし、したくない。「がんばれ!」とか、「この苦しみをバネに立ち上がれ~!」とか、何だかイヤだなぁ・・・。
私はただ、「そうなのね、それはさぞつらかったでしょう。かなしいね。つらいね。」と、心から言いたいです。
そんな私になれたらいいなぁって、夢みています。

イエスはそれが出来たんだろうなぁ・・・。
やっぱり魅力的だなぁ・・・。

ではまたね♪
2006/09/05 01:15 | mar [ 編集 ]

そうですよね。イエス様は事実そうなさってますよね。(+αのオマケつきで。笑)

ルカの福音書の7:11-17に、死んだ息子のために泣く母親が出てきますよね。。
--
主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。
そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。
すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった。
--

僕、この話が大好きで、そうして、これが寓話だとは思えないんです。むしろ現代でも、これと同じことが起こってるような。僕らの間にも普通に起こってるような気がしてならないんです。。(オチがない話でごめんなさい。笑)


でんでんむしのお話は初めて伺いましたよ!(笑)
でんでん虫は螺旋の殻を、人は十字架を背負って生きてるんですねヽ(' ')ノ

百万回生きた猫は、ココさんに教えてもらってずっと心に留めていて、それで先日、ようやっと読むことが出来ました。迂闊にも電車の中で読んで見事に泣きました(笑)

ちょっと、背後霊に書けって言われたので、勢いで書かせて頂きました(u u)
それでは、失礼します~ヽ(*' '*)ノ
2006/09/05 18:49 | よねくら [ 編集 ]

しょうさんへ

しょうさんを後押ししてくれた背後霊さん(?)に感謝ですね。
コメントはいつでも大歓迎で、ウェルカムですよ~!!

そう、本当に「彼」はとても愛のある、そして「粋(=ナイス)」なお方・・・。
だから私も大好きなんです。
人の命をよみがえらせたり、目が見えなかった人を見えるようにしたり・・・。
そういう話がたくさん出てくるけれど、私は、「魂の話なのかなぁ・・・。」と思って読んでいました。
死んでいた魂に、命を吹き込む。
閉ざされていた心の眼を、開かせる・・・。
でも、もっともっと、素直にシンプルに、書かれたままを信じられなくては、信仰は持てないだろうと・・・。
でも、もしあの2000年前に十字架に上がった「彼」が本当に「そう」ならば・・・(遠回しな言い方ばかりでごめんね。)、そうしたら、今私が悩み考えつつも、まだ迷いながら信仰を持つことが出来ずに生きていることすら、「彼」の計画のうちかもしれません。
「彼」を地上に送った「神」って何だろう・・・。
私の中で今一番ピンと来るのは、「神」とはつまり「自然」「宇宙」「時間」「運命」・・・そういうものを一括して、それを人格化したもの・・・かなぁ・・・って。それならばいるもいないも何も、すでに「ある」ものですからすんなり受け入れやすいように思います。

『百万回生きた猫』は・・・最後がすごいなぁって、本当に思います。
人生において真実に「愛する」ということができて初めて、真の「死」に至ることが出来る・・・。
愛することのない人生は、生きた、とは言えない、だから真に死ぬことすら出来ずに何度でも生き返る猫。
人生における最重要事項は「愛」だなぁと、感じさせられますね。

それでは、上の「オーラソーマ」の結果聞かせてもらうの、楽しみにしているからやってみてね♪
まってるよ~~ヾ(*'-'*) マタネ♪

2006/09/05 23:05 | mar(マル) [ 編集 ]









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プロフィール

mar(マル)

Author:mar(マル)
☆大切なこと
「真・善・美」な道を求めて日々成長すること。

☆好きな言葉
「世界と人生を愛すること 
苦しい時にも愛すること 
太陽の光を感謝して受け取ること 
苦しみの中でも微笑を忘れないこと」
(ヘルマン・ヘッセの言葉) 

☆好きなこと
・空が好き。
・本(古典・純文学系)が好き。
・きれいな音楽が好き。
・いい映画や、美術、旅行も好き。
・木に咲く花が好き。
・花の写真を撮ることが大好き。
・色々考えることが好き。
・文章を書くことも好き。

☆好きな本
・ヘッセ『デミアン』『春の嵐』
・リルケ『若き詩人への手紙』
・高村光太郎『智恵子抄』
・三浦綾子『道ありき』『氷点』『泥流地帯』『塩狩峠』
・倉田百三『出家とその弟子』
・ドストエフスキー『白痴』『カラマーゾフの兄弟』『罪と罰』
・ロレンス『チャタレイ夫人の恋人』
・トーマス・マン『トニオ・クレーゲル』
・ミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』
・宮沢賢治『銀河鉄道の夜』
・ゲーテ『若きウェルテルの悩み』
・サンテグジュペリ『星の王子さま』
などなど。

☆好きな映画

『初恋の来た道』『ポンヌフの恋人』『ローマの休日』『アメリ』『父と暮らせば』『ノッティングヒルの恋人』『ライフイズビューティフル』『ベティーブルー』『存在の耐えられない軽さ』『嵐が丘』『LOVERS』『汚れた血』『イングリッシュペイシェント』『エトワール』『風と共に去りぬ』など

☆好きな音楽

・グレン・グールドの弾くバッハ(特に『ゴールドベルク』)
・マドレデウス

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