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2007/09/21 (Fri) 弟橘媛

20070921100615.jpg
海と・・・。

Image145.jpg
空と・・・・。


2007_0826summer0025.jpg
地に咲く花。


●美智子妃とオトタチバナの「愛と犠牲」

今度の舞台のタイトルが「愛と犠牲」だと聞いたとき、真っ先に頭に浮かんできたのは美智子妃の語った弟橘媛(オトタチバナヒメ)の話だった。

皇后・美智子妃が第26回国際児童図書評議会(IBBY)ニューデリー大会(1998年)において「子供の本を通しての平和--子供時代の読書の思い出--」 という基調講演をされた。この講演は本当にすばらしいものであり、テレビで放送され、大きな反響を呼んだ。その後、新聞で全文が掲載され、その後『橋をかける』(すえもりブックス)という本として出版された。
これをたまたまテレビで見て私は、美智子妃が読書のことに触れつつも、戦争中に疎開先で経験したことや、自分の歩んできた心の軌跡を、不安や悩みや悲しみや喜びも含めて・・・たてまえではなく率直に語ったことに驚かされた。

「私は時に周囲との関係に不安を覚えたり、なかなか折り合いの付かない自分自身との関係に疲れてしまったりしたことを覚えています。」
「生きていくということは、楽なことではないのだという、何とはない不安を感じることもありました。」
「私が、自分の小さな悲しみの中で、本の中に喜びを見いだせたことは恩恵でした。」
「読書は、人生のすべてが、決して単純ではないことを教えてくれました。私たちは、複雑さに耐えて生きていかなければならないということ。人と人との関係においても、国と国との関係においても。」
(美智子妃『橋をかける』より)

このような言葉は、真剣に生きるだれしもが、生きていればいつかは感じることであるように思う。
私は、彼女が子供の頃に読んだ本から心豊かに多くを感じ学んできたことを知り、深く共感した。私も本と共にこれまでの自分の道を歩んできたように思うから・・・。
今までは、遠くで微笑んでいる人・・・というような漠然とした存在だったけれど、生きた女性としての生の声を初めて聞けた気がして、これまでとは違う親近感を持って美智子妃を見ることができた。
よくよく考えれば、自分の意志ではどうにもならないような、本当に大変な運命を担い歩んでいらっしゃるのだろう・・・と思う。あれほどの重責を背負って生きている人はなかなかいないだろう。

その講演の中でも特にこのオトタチバナヒメのことを話すときに使われた、「愛と犠牲」という言葉が、なぜか心に残っていた。

オトタチバナとは、日本の最古の歴史書(神話と言った方が良いかな・・・。)『古事記』に出てくる倭健命(ヤマトタケルノミコト)の妃である。
タケルの遠征中に海が荒れたとき、オトタチバナは海神の怒りを鎮めタケルに旅を続けさせるために自分の命を捧げ、入水する。自己犠牲の死に際して、オトタチバナは、かつてタケルが自分の命を守ってくれたことへの感謝の気持ちを詠み残す。
「さねさしの 相模(さがむ)の小野に 燃ゆる火の 火中(ほなか)に立ちて 問ひし君はも 」

美智子妃はオトタチバナについてこう語った。

弟橘の言動には,何と表現したらよいか,建と任務を分かち合うような,どこか意志的なものが感じられ,弟橘の歌は、あまりにも美しいものに思われました。
「いけにえ」という酷(むご)い運命を,進んで自らに受け入れながら,恐らくはこれまでの人生で,最も愛と感謝に満たされた瞬間の思い出を歌っていることに,感銘という以上に,強い衝撃を受けました。
はっきりとした言葉にならないまでも,愛と犠牲という二つのものが,私の中で最も近いものとして,むしろ一つのものとして感じられた,不思議な経験であったと思います。
 この物語は,その美しさの故に私を深くひきつけましたが,同時に,説明のつかない不安感で威圧するものでもありました。
 古代ではない現代に,海を静めるためや,洪水を防ぐために,一人の人間の生命が求められるとは,まず考えられないことです。
ですから,人身御供(ひとみごくう)というそのことを,私が恐れるはずはありません。
しかし,弟橘の物語には,何かもっと現代にも通じる象徴性があるように感じられ,そのことが私を息苦しくさせていました。
今思うと,それは愛というものが,時として過酷な形をとるものなのかも知れないという,やはり先に述べた愛と犠牲の不可分性への,恐れであり,畏怖(いふ)であったように思います。  」
(美智子妃『橋をかける』より)

この言葉は、彼女自身の人生と重ね合わせて考えたときに、奇妙なリアリティーを持って迫ってくる。
彼女の人生は、まさにそのまま「愛と犠牲」かもしれない。
雅子さんのことを思っても・・・皇室で生きるということは想像を絶するほど、「愛と犠牲」から絶対に逃れられない、息苦しくまた過酷なことなのかもしれない。

「愛と犠牲」は、生やさしいものではないのだな・・・と、あらためて身が引き締まる。
時には不安に威圧されるような、過酷なもの。
時には、愛ゆえに自分の命さえ意志的に投げ出さなくてはならないような・・・。
そこに対する恐れや畏怖・・・。
決してナルシシズムや甘い感傷では為し得ないものだと感じる。


●イエスとオトタチバナの「愛と犠牲」

私たちの舞台では、もちろん「愛と犠牲」とはオトタチバナのことではなく、スペインのキリスト教の聖週間の祭りのマリア像の名前に由来している。
歌われる歌はカソリックであるスペインのものなので、出てくる歌詞は、「Santa Maria(聖母マリア)」だったり、「Jesus Nazareno(ナザレのイエス)」だったり、「Subir a escalera a la Cruz(十字架に上がる)」だったりする。
でも、ほぼクリスチャンではない私たちが、ウソではない何かを「愛と犠牲」において表現したかったら・・・。
そこに、自分の人生における(具体的ではなくてもいいから)切実な、「愛と犠牲」に対する思いが無くてはならないだろう。

愛ゆえの自己犠牲。
愛ゆえに、十字架に上がったイエス。
愛ゆえに、海へと身を投げたオトタチバナ。

似ているような・・・大きく異なるような・・・。
イエスは男性。
オトタチバナは女性。
イエスは「天」にどこまでも高く昇り・・・。
オトタチバナは「海底」に深く沈んでいく・・・。
イエスは父なる神に与えられた使命を果たすために亡くなるけれど、でも、その後3日で復活したことになっている。
イエスは永遠の命を持っていたかもしれないけれど、オトタチバナの命はどうだったのだろう。きっと復活を期待していたわけではなく、ただ一度きりの命を投げ出した。
死に際し、イエスは捕らえ「られ」、十字架を担が「され」、十字架にあげ「られ」て、「父よ、どうしてわたしを見捨てたのか」と言いながら死んでいく。
オトタチバナは、自分の意志で入水を選び、ただただ愛と感謝を述べて死んでゆく。
イエスの死は贖罪の死。彼の死によって、その後、多くの人が救われる。(ということになっている)
でも、オトタチバナの死は、ただ、ひととき荒れた海を沈め、愛する夫タケルの命を救っただけだ。

どちらが優れている、とか、すばらしい、とか、言えない
次元の問題だ。
どちらも、真の「愛と犠牲」に間違いは無い。
でも、その差異が何か、とても象徴的に思える。
この辺のこと、どなたか詳しい人にお話を伺えたらうれしいのだけれど・・・。
誰かいないかなぁ・・・。
「愛と犠牲」の人類共通の普遍性と、また、それぞれの文化による違いなど、研究したら面白そう。
(こんなことを考えるもの、最近河合隼雄さんの本で、日本人の心のあり方について考える機会が多いから。河合先生は日本を「中空均衡型」、キリスト教社会を「中心統合型」とおっしゃる。日本は「空」の部分に天皇制が入り、キリスト教では「中心」に唯一絶対の神が入る。それについてはまたあらためて書きたいと思う。)

私の中での「愛と犠牲」のイメージは、天使と共に澄んだ空の上の天国へ上昇・・・よりもむしろ、深い深い海の底へと沈んでいく方がしっくり来る。
水の冷たさ温かさ、重さ、息苦しさ・・・。
涙のようなしょっぱさ。
海は、すべての生物のいのちの源。
海の中には渦を巻き、流れ、満ちて引く、混沌とした世界がある。
でも、その、混沌のままで、すでに調和し、浄化されている。
天を志向するカンテ(歌)の中で、私の海へ沈む心と体は、響きあい、溶け合うことができるだろうか。

天にも、海の底にも、「愛と犠牲」はある。
もちろん、地上にも・・・いたるところであらゆる人たちが、それぞれの「愛と犠牲」のなかを、自覚することも無くとも確実に生きている。
私の家族・・・父も、母も、妹も・・・。
「愛と犠牲」という言葉の重い響きを忘れさせてしまうほど、ただ日常をあたりまえのように、愛と犠牲の中に生きていると感じる。

うまく考えはまとまらない。
でも、とりあえず今の時点で心にあることを書いておくことが大事だ。

今日も、必死で踊ってこよう。

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comment

弟橘に反応してしまった・・・大好きな児太郎様・・・(現・福助様)がヤマトタケルで演じた役・・・
あたしは40年のエセクリスチャン・・・う~~~ん

愛と犠牲・・・・水の中のイメージ・・・わきますね。
愛・・・大き過ぎてよく解らない・・・この歳になってもね。

うちの子が『強いっていうのは、優しいってことなんだと思う!!カッコいいってのも、優しさだと思う!!』と,未だ幼い頃いいました。
愛とは,強いもの・・・優しさに満ちたもの・・・
でもそれは,決して簡単ではなくて、水の中の様に直接は触れることができないものの様な気がします。

しなやかな、たおやかな、marさん!!あなたのごとく・・・
2007/09/21 16:36 | さるしおん [ 編集 ]

この大テーマに対しては、ぼくは口をつぐむしかありませんね。

ただ、オトタチバナ伝説には、昔から無類の美しい話だという感想を持っております。
2007/09/21 16:48 | ♪あし♪ [ 編集 ]

☆さるしおんさん

本当に、素敵な、かわいい息子さんですね。
優しさは強さ、かっこよさ。愛は優しさ・・・。
優しくされると、涙が出ちゃうのはどうしてでしょうね・・・・。
ドリカムの歌で
「ねぇ どうして すごく愛してる人に 愛してると言うだけで ルルルル 涙が出ちゃうんだろう~♪」
という歌詞がありましたが、それ、大好きです。
「ほんと、どうして涙が出ちゃうんだろう・・・」
って思います。
。・:*:・(*´ー`*人)。・:*:・
愛は、優しさであり、自己犠牲であり、許すことであり・・・。
ありとあらゆるものなのでしょうね・・・。
愛とは何かを考えたときに、大好きなクリスチャンの作家・三浦綾子さん(プロテスタントですよ。)本の中で見た聖書の「コリント人への手紙」の言葉を思い出します。
「愛は寛容であり、情け深い、妬まない、不作法をしない、自分の利益を求めない、・・・」というあれです。
その最後の部分、
「愛は、すべてを信じ、すべてを忍び、すべてを望み、すべてを耐える」
というところで、「すべて」という言葉の重さにハッと心がふるえる思いをします。
まだまだ愛に遠い自分を思って。

まとまりのないお返事でごめんなさいね。
練習頑張りますね。

2007/09/22 09:52 | mar [ 編集 ]

☆あしさんへ

本当に美しい話ですよね。
美しいと感じる心には、どの部分が「美しさ」として響いているのでしょうね。
やはり、愛のために自分の身を海へと投げ出す、という・・・自己犠牲に打たれるのでしょうね。
「人、その友のために命を捨つる、それより大いなる愛は無し」
だったかな、聖書の言葉です。この場合は友ではなく夫ですが・・・。
自己犠牲の中に大きな愛を見て、その痛ましいほどの美しさに打たれるのでしょうね。
自分のことばかりで手一杯な私には、なかなか難しいことです。
2007/09/22 09:55 | mar [ 編集 ]

いつも素敵な写真と美しい言葉で、私の汚れ切った心をやさしく拭ってくれます。

marさんの言葉1つ1つに、笑ったり、落ち込んだり、涙したり… 最近やたらと涙もろくなりました。

歳のせいかしら…


2007/09/22 10:15 | azada [ 編集 ]

☆azadaちゃんへ

コメント本当にありがとう。
心がふるえるように感受性豊かになっているのですね。
本当に素敵なことですね。

生きているあいだに、私もできるだけたくさんのものに感動したいなぁと願っています。
毎日、朝起きて、太陽を見る、空を見る、その時、ちゃんと心が反応してくれたらいいなぁと思います。

みんなに支えられて、なんとか、どうにかこうにかやっています。
あと少し頑張るので応援していてね。
ヽ( ´ ▽ ` )ノ ♪
2007/09/22 10:36 | mar [ 編集 ]

一週間PCがご機嫌ななめだったので、久しぶりのコメントです。

と思ったら、う~~~ん、大きすぎるテーマだ。
残念ながら私は文学には精通しておりませんので多くは語れないけれど、
日々の中で「愛と犠牲」を感じ、何気に考えているかもしれません。
とはいっても、命がけには到底及ばない小さな小さな出来事です。

人に不満を感じる時って、自分主体になっているからなのかな。
自分が空しく感じる時って、相手に過度な期待を持ちすぎているからなのかな。

常にどこか「自分」を主張したがる私は、オトタチバナのような美しい犠牲を払う事はできない、人間くさい人間です。
ちょっと最近、そんな感じの事で悩んでたので、なんだかmarさんに諭された気がします。
ありがとうございます。

marさんが魂込めて必死に練習している様子が目に浮かびます。
「愛と犠牲」をどう踊りで表現すべきか、
そんな難題と日々戦っているのでしょう。

あと一週間ですね。楽しみにしています!
2007/09/22 10:48 | erte [ 編集 ]

☆erteさんへ

最近、心がオープンに(むき出しに?)なっているのか、思いがけない夢をよく見ます。
最近では、泣きながら、
「素直になれなくてごめんなさい、ごめんなさい。」
と、先生方にしがみついて謝っている夢を見て、ビックリしました。
自覚している自分としては、ごくごく素直だと思うのですが・・・。(笑)
泣きながら謝らなくてはならないようなことをした覚えもなく・・・。
先生たちも、先生たちのようであって、先生たちではなかったような・・・。
夢は潜在意識への扉。
心の不思議な引き出しが、次々に開いてしまっているような状態なのかもしれません。

みんなと一緒にいればいるほど、スウッと、周囲が遠ざかり、「自分」というのが個であることを感じます。
寂しいような、それでいいような・・・。
人間って、基本的には一人ずつ、逃れようもなく本質的に孤独ですね。
大げさなようですが、本物の「愛」(ただ愛すること)だけが・・・孤独な人生を耐えて生き抜くための道かもしれません。

・・・と言いつつ、私もなかなか理想通りに生きることはできず、ワガママな自分の心にうんざりしながらいます。
でも、「愛と犠牲」は、やっぱり憧れです。
2007/09/26 14:07 | mar [ 編集 ]









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Author:mar(マル)
☆大切なこと
「真・善・美」な道を求めて日々成長すること。

☆好きな言葉
「世界と人生を愛すること 
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(ヘルマン・ヘッセの言葉) 

☆好きなこと
・空が好き。
・本(古典・純文学系)が好き。
・きれいな音楽が好き。
・いい映画や、美術、旅行も好き。
・木に咲く花が好き。
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・色々考えることが好き。
・文章を書くことも好き。

☆好きな本
・ヘッセ『デミアン』『春の嵐』
・リルケ『若き詩人への手紙』
・高村光太郎『智恵子抄』
・三浦綾子『道ありき』『氷点』『泥流地帯』『塩狩峠』
・倉田百三『出家とその弟子』
・ドストエフスキー『白痴』『カラマーゾフの兄弟』『罪と罰』
・ロレンス『チャタレイ夫人の恋人』
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・ミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』
・宮沢賢治『銀河鉄道の夜』
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などなど。

☆好きな映画

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☆好きな音楽

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