2017・10
<< 09 1/2/3/4/5/6/7/8/9/10/11/12/13/14/15/16/17/18/19/20/21/22/23/24/25/26/27/28/29/30/31/ 11 >>
--/--/-- (--) スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

2008/08/03 (Sun) 吾輩は吾輩である

2007_0710yoko0027.jpg 
愛猫:ミルちゃんです。

駒尺喜美『漱石という人 ~吾輩は吾輩である~』
                                 (思想の科学社)1987年

●はじめに

 父が貸してくれた、駒尺喜美著『漱石という人』を読み終えた。
 夏目漱石の作品は高校での授業で読んだ『こころ』をはじめ、これまでも色々と読んできたけれど、まとまった「漱石論」を一冊の本としてしっかり読んだのはこれが初めてかもしれない。
 前回読んだ駒尺さんの『紫式部のメッセージ』に続いて、今回もまた目から鱗が落ちるような鮮やかで明晰な夏目漱石論に、引き込まれ、魅了され、多くを学んだ。
 まず、駒尺さんの見せてくれた「漱石像」を通じて、あらためて漱石を好きになった。サブタイトルとしてつけられた、「吾輩は吾輩である」。この象徴的で的確な、漱石の核をズバッと言い放った部分だけでも、漱石その人の魅力にググッと心を惹かれる。
 それから、この本の中で駒尺さんの切り開いてくれた新たな視点を得た上で、今度は自分自身の目と心とをもって、漱石の作品にドップリ漬かりきって、もう一度新たな視点を持って読みまくりたい・・・!という熱い心になった。そう感じさせてくれる本って、なかなかない。
 この本はもちろんひとつのすばらしい「漱石論」であるのだけれど・・・。それだけではなく、漱石の作品を通して「人間はいかに生きるのか」という大問題と真摯に向きあった、作者自身の人生を打ち込んだ魂のこもった作品だと感じた。
 そして、駒尺さんという人を、もう少し追ってみたいという気持ちになった。(まだ、これが私の読んだ彼女の作品の3冊目・・・。)1925年生まれの駒尺さん。今まだお元気でいらっしゃれば、83歳になられるはず。ああ・・・お目にかかってみたい!
 この優れた作品をせっかく読んで、このまま読み流してしまうのはもったいないので、この内容に書かれた内容を、私自身の頭の中の整理と今後の人生のために、ざっくりとまとめておきたいと思う。
 (それにしても、こうやってじっくり本を読み、その内容について考え、書く時間を持てることをしみじみ幸せに思う。)

●第Ⅰ章「漱石の原点  -平等と独立の人」

 筆者は、「女々しさ」こそが、漱石の漱石たるところであり、偉さである、という。漱石は、偉大であるがゆえに女々しくならざるを得なかったのだ、そこに漱石の特長があるのだ・・・と。  
 漱石の一番大きな要素は、「平等の人」「独立の人」であること。
 「漱石は自分なりに、あるいは日本のこの現状の中で、どのようにすれば平等で独立の自己が確立できるか、まわりのあらゆる人たちもそのように生きてゆけるか、そしてその独立人の間をどうすれば友愛、連帯で結べるか、そのことを考え煮つめて、その果てにあのような大作をなしえたのだと思います。」(p23)
 そのあらわれとして、流派に属さなかった、文壇人ではなかった点、文部省からの博士号を「一利なくして百害あり」と拒否したり、という権威を徹底的に嫌った点、内田百間や、芥川龍之介ら、弟子たちとのフランクなつきあいにおいて、若い人から多くを学んだ点などをあげている。
 また、このような「平等・独立」な魂を持つ漱石を形成した要素として、次の三つを挙げている。
 1,「平民・夏目金之助」であったこと。
 階級社会の名残色濃い明治に、平民として生まれ育ったことが漱石の根っことなっている。「天下国家」の側からではなく、平民の場、生活人の場からの発想をし、そこから離れることがなかった。末子として生まれてすぐに里子に出されたり、その後も物品のように軽く自分を「やりとり」された生い立ちが、大人への、ひいては社会への批判眼を養った。それと同時に、その生い立ちにより、家制度から自由なところで生きることもできた。
 2,「悪妻」に恵まれたこと
 鏡子夫人という人が、黙って素直に夫に従うタイプではなかったがために、漱石は真剣に対峙せざるを得なかった。家庭内での身近な人間同士の関係が、漱石の思想を深め、磨きあげる役割をした。
 3,神経衰弱
 考えすぎるあまり神経衰弱になり胃を患うような漱石の性格は、裏を返せば、ひとつのテーマをとことん突き詰めて考え抜き、それを手放さずに持ち続ける強さでもある。いい意味でのこの「しつこさ」が、作品を描くことを繰り返しながらひとつの大きなテーマを練り上げ完成していく上での力となった。

●第Ⅱ章 「漱石の足どり」 
 (割愛)

●第Ⅲ章 「自己本位を生きるということ」

*1 自己本位の確立 -『それから』

 駒尺さんは、『それから』という作品によって、漱石の思想はひとつの飛躍を遂げ、以後の作品すべてにおいて、ここで抽出されたテーマが引き続き追求されている、という。ここがひとつの転換期であった。
 『それから』のなかで、高等遊民である主人公・代助は、「自己本位」を確立することと引きかえに、社会、家族、友人から孤立してゆく。この作品によって、漱石は、時代、社会への問題意識と、自己の問題意識とをぴたりと重ねることができた。
 そして、これ以降、その問題意識をさらに押し進める形で作品を生みだしてゆく。それは、これまで求めてきた「自己本位」をつかむこと、そしてそれが内包する「難問」へと立ち向かってゆくことでもあった。漱石が取り組もうとした「難問」 とは、個人主義を確立し合った「個」と「個」同士の孤立、衝突を、どうつないでゆくか、ということであった。
 『それから』に描き出されたのは、近代文明社会(自由競争社会)では、人間が孤立化し、ついには互殺にゆきつく、という危機意識であった。
 
*2 絶対の境地に向かって -『行人』

 その『それから』の結末においていだいた危機意識を、家の「内」へと向けたものが『行人』という作品である。『行人』において漱石は、「分からない相手の心を、分かりたい、分かりたい、と、苦しみつつも必死で求める夫婦の姿」を描いた。
 駒尺さんは、漱石の他の作家(広く見れば同時代人)として特異な点として、
 「社会問題と同じ次元で家庭内の問題を考え」「人間の孤立化を問題にするとき、社会と家、外と内をまったく同等の重さで扱っている」(p137)
 ところを挙げている。
 漱石は、『行人』の結末部分でこう書いている。
 「何んな人のところへ行こうと、嫁に行けば、女は夫のために邪(よこしま)になるのだ。(中略)自分が悪くした妻から幸福を求めるのは押しが強すぎるじゃないか。幸福は嫁に行って天真を損なわれた女からは要求できるものじゃないよ。」
 つまり漱石は、家父長、夫権、男権という性差別の根本に、自分自身の生活のなかでの葛藤を見つめることにより気付いていったのだ。そして、こう悟る。
 「上下関係のなかでは、真の幸福は得られない。」
 と。漱石は、概念としてではなく、人間らしい幸福を求める苦しみの中から、ここまで辿り着いてきたのだ。

*3 則天去私の完成 -『道草』
 
 これまで、権威を嫌いながら権威の上に乗って歩んできた自分自身の醜さや弱さを見つめた漱石は、いったん自己を否定する必要に迫られる。それをフィクションとして作品の中で実行したのが、『こころ』である。
 
 そして、その上で次のステップとして描かれたのが『道草』だ。漱石は、平民の家庭に生まれてから、ずっと、家庭内でたった一人の「知識人」である孤独感を感じてきた。周囲を見回せば、くだらなく見えるような煩雑な日常にせせこましくかかずらってけちくさく生きている「低い人々」が見える。
 「高い自己」と、「低い人々」という、二分の視点、すなわち自己の偏見との対峙、これが『道草』のなかで描き出されている。漱石はここで、自らの持つ偏見を認め、自分から低い相手の立場へと下降していく必要性を感じる。これは自分自身を見失わないための「自己本位」をしっかりその手に握っていたからこそ、なしえたことであった。自分自身の上り詰めた高みから、相手の高さにまで降りること、それこそが、晩年辿り着いたとされる「則天去私」の境地であった。
 漱石は『道草』を書きながら、「我」のメガネをはずし、「去私」の態度になりえたとき、あらゆる人の立場、その内側に立つことが可能になった。他人の内部の重さと、自分の内部の重さとを、平等に受け取る道をつかんだのだ。それは、「人間としての道」でもあり、また、「文学方法としての道」でもあった。
 人間おのおのが、内的必然によって動きつつ、そのエゴイズムとエゴイズムが絡まり合い組み合っているのだ、という、全体像が見えてきた。そこで、見えてきたそれらを描こうとしたのが、未完の最高傑作『明暗』である。
 『明暗』は書き上げられていれば、間違いなく近代文学の最高峰として、世界の文学に負けるとも劣らない名作となったはずであるから、書き上げるまで命が保たれなかったことが惜しまれるし、漱石自身も悔しいだろう。

●「あとがき」より 一部要約

 五百年たっても色あせぬ文学として残りうるものは、近代文学のなかでは漱石ただ一人だろう。
 古典文学の作品の中で『源氏物語』が起立しているように、評論家や研究者が決定せずとも、自然と時間が経てば経つほどに漱石は、一般の読者によって時間の流れで洗い流された果てに「古典」の席へと納められてゆく、起立した作家となるだろう。
 平民・夏目金之助は、発奮して、思索に思索を重ねて、知識人の中の知識人となった。しかし、作家、文学者として大成することを目的とはしなかった。人間の生き方を求め、人と人とのつながり方を求めて、どこまでも追求した。その結果、再び平民の位置に降りたのである。晩年の漱石は、それを自己の人間性回復の道だと信じていた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

*この文章を書き終えてから、駒尺喜美さんのことをインターネットで検索してみたところ、つい昨年の2007年5月22日に逝去されていたことを知りました。
 生きている間にお目にかかれなかったのは残念ですが・・・。
 残された作品を少しずつ読んでいきたいなぁと思っています。

スポンサーサイト

comment









ブログ管理人にのみ表示を許可する


trackback

trackback_url
http://lunasolmilcoco.blog68.fc2.com/tb.php/252-25df1646

カレンダー

09 | 2017/10 | 11
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -

プロフィール

mar(マル)

Author:mar(マル)
☆大切なこと
「真・善・美」な道を求めて日々成長すること。

☆好きな言葉
「世界と人生を愛すること 
苦しい時にも愛すること 
太陽の光を感謝して受け取ること 
苦しみの中でも微笑を忘れないこと」
(ヘルマン・ヘッセの言葉) 

☆好きなこと
・空が好き。
・本(古典・純文学系)が好き。
・きれいな音楽が好き。
・いい映画や、美術、旅行も好き。
・木に咲く花が好き。
・花の写真を撮ることが大好き。
・色々考えることが好き。
・文章を書くことも好き。

☆好きな本
・ヘッセ『デミアン』『春の嵐』
・リルケ『若き詩人への手紙』
・高村光太郎『智恵子抄』
・三浦綾子『道ありき』『氷点』『泥流地帯』『塩狩峠』
・倉田百三『出家とその弟子』
・ドストエフスキー『白痴』『カラマーゾフの兄弟』『罪と罰』
・ロレンス『チャタレイ夫人の恋人』
・トーマス・マン『トニオ・クレーゲル』
・ミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』
・宮沢賢治『銀河鉄道の夜』
・ゲーテ『若きウェルテルの悩み』
・サンテグジュペリ『星の王子さま』
などなど。

☆好きな映画

『初恋の来た道』『ポンヌフの恋人』『ローマの休日』『アメリ』『父と暮らせば』『ノッティングヒルの恋人』『ライフイズビューティフル』『ベティーブルー』『存在の耐えられない軽さ』『嵐が丘』『LOVERS』『汚れた血』『イングリッシュペイシェント』『エトワール』『風と共に去りぬ』など

☆好きな音楽

・グレン・グールドの弾くバッハ(特に『ゴールドベルク』)
・マドレデウス

最近の記事

最近のコメント

月別アーカイブ

カテゴリー

フリーエリア

最近のトラックバック

FC2カウンター

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

ブログ内検索



リンク

このブログをリンクに追加する



RSSフィード



上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。